名古屋市瑞穂区の閑静な住宅街に正及神社という名の史跡があります。どこにもありそうな一般的な神社に見えますが、その名前は、何となく気位の高さを感じさせます。
ところで、正及のそれぞれの漢字自体は決して難しいものではないでしょうが、読み方については一概に簡単とは言えないでしょう。
正及神社って、一体何て読めばいいの?どういった類いの神社なの?そんな疑問にお答えしていきましょう。
正及神社の読み方
正の字も及の字もどちらかと言えば平易な漢字ですが、それ故逆に読むのに困るかも知れません。
正及神社の読み方は、”しょうきゅうじんじゃ”です。正及という文字の並びは今まであまり見たことがありません。なので余計難しく感じてしまいます。
どうも正及というのは、この神社の固有名詞のようですが、この辺りの地名でもないようですし、名前の由来については正直なところよく分かりません。
ちなみに正及神社の住所は、名古屋市瑞穂区田辺通であり、瑞穂区内を全部見回しても、正及という地名はありません。
名跡である正及神社
しかし訳の分からないネーミングだと思って、この神社を侮ってはいけません。例えば北側の参道入り口に何気なく立っている標石をよく見て下さい。
そこには岸信介の名前があります。岸信介は日本の第56・57代内閣総理大臣を務めた人であり、安倍晋三現内閣総理大臣の祖父にあたります。
この標石は、そんなひとかどの人物がわざわざ揮毫したものなのです。石に彫られた字体は岸信介の書によるものということです。だからこの神社を侮ってはいけないのです。
名古屋市瑞穂区田辺通のこの辺りは、すぐ近くに市立大学もあって、典型的な文教地区であると言えます。一見するだけで、裕福で上品そうな雰囲気が充満しているのが感じ取れます。
そんな閑静な住宅街にこの神社はあります。人知れずひっそりと存在していて、神社に常駐する者は誰もいません。社務所は雨戸で閉ざされたままです。
しかしこの無人の正及神社は、実はとんでもない名跡であると言えるのです。
正及神社の正体
正及神社は尾張藩六代目藩主である徳川継友の命により、享保元(1716)年この地に創建されました。
ですから、今は目立たぬ存在になっている感がありますが、れっきとした尾張徳川家関連の史跡です。
そしてさらに凄いことは、この神社の祭神が源朝臣家康、すなわち徳川家康であることです。つまり正及神社は、神君家康公を祀った東照宮なのです。
東照宮は日本全国に幾つかあって、偉大なる家康公を神として祀っているだけあり、日光東照宮をはじめとして厳かなところが多いのですが、この正及神社は紛れもなくその東照宮のひとつなのです。
ところで徳川継友といえば、紀州藩主の徳川吉宗と熾烈な将軍後継争いをして結局のところ敗れてしまった人です。
なので将軍吉宗の治世の時に敢えて尾州に東照宮を創建させたのは、そうした背景が絡んでいたからかも知れません。
つまり、徳川家の優位性というか、正統性というか、そういったものはここ尾州にあるのだということを暗に示したかったのではないかということです。
それで神社の名前も、この尾州にこそ家康公の血脈は、正しく及んでいるのだぞという意味で、正及神社としたのではないでしょうか。
しかしそれは、あくまで私の勝手な想像です。何せ神社には関係者がひとりもいませんので、誰かに詳細を尋ねたわけではありません。
まとめ
- 正及神社の読み方は、”しょうきゅうじんじゃ”である。
- 正及神社は、名古屋市瑞穂区にある。
- 岸信介元首相が揮毫した標石が、正及神社が名跡であることを物語っている。
- 創建は尾張藩六代目藩主の徳川継友の命によるものである。
- 正及神社は、神君家康公が祀られている東照宮である。
正及神社のある一角はものすごく大きく、神社の南隣には、周りを土壁作りの古風な塀で囲まれた、見るからにただものではない建物があります。
そこには企業名や団体名などの表示は一切なく、単に「暮雨巷」とだけ書かれています。
私はこの、秘密結社の集合場所のような謎に満ちた建物は、正及神社の付属施設か何かだろうかと思いながらその場を去りました。
それが後から調べてみたら、旧東海銀行元頭取の邸宅で、現在は三菱UFJ銀行の迎賓館として使用している建物だということが分かりました。
そこにちょっとした駐車場があるのですが、それは恐らく暮雨巷のものであって正及神社とは関係のない施設です。
だからくれぐれも勝手に車を停めたりしないで下さいね。正及神社には駐車場はありませんよ。