桶狭間の戦いで今川義元は2度首を取られた?現在の地図で場所を確認!

桶狭間の戦いは、弱小の織田信長が大大名の今川義元を討ち取った、日本史上超有名な出来事です。ですから詳しいことは分からなくても、その言葉自体を聞いたことがないという人など皆無ではないでしょうか。

ところで桶狭間の戦いとは、どこでの戦いなのでしょう。桶狭間という地名が冠せられていますが、実はそれがとても曖昧で、今川義元最期の地が現在2箇所存在するのです。

ひょっとしたら、今川義元がふたりいて、ふたりが別々のところで討ち取られたのでしょうか。地図を追いながら、その経緯や真相に迫ってみることにしましょう。

桶狭間の戦い

日本で教育を受けたならば、詳しくは知らないまでもその名前くらいは間違いなく聞いたことがあるであろう桶狭間の戦い。日本近世の始まりとなる重要な転機となった、日本史上いくつかある有名な出来事の最たるものです。

永禄3(1560)年5月19日(新暦6月12日)の、この地を襲った天変地異のような激しい雷雨の直後の昼下がりにその一大事変は勃発します。

当時まだ尾張の弱小分家守護代に過ぎなかった織田信長が、領地を進軍する駿河の名門守護今川義元率いる大軍を桶狭間の地で迎え、大将今川義元を討ち取ったのです。

この戦いについては、それに至る直前の両軍の進軍ルートや小競り合いの様子が、事細かく分かっています。例えば前々日に今川義元が入った沓掛城、今川勢の前哨基地であった鳴海城と大高城、それを取り囲む鳴海城に対しての丹下砦と善照寺砦と中島砦、大高城に対しての丸根砦と鷲津砦、それらは桶狭間の戦いを語る時には必ず付き物となって出てくる重要キーワードです。

いわば桶狭間の戦いを語る上での御膳立てのような存在ですが、それらのあった位置は、かなり正確に把握されています。ですから肝心の主食部分に該当する、今川義元の最期の場所である両軍の決戦場所などは尚更事細かになっているものと思うものです。

桶狭間古戦場

しかしそういった古戦場というものは、城や砦といった構築物があったわけではないので、明確な物証を残さない限りは時間の経過と共にその場所が曖昧になっていってしまいます。こんなに有名な桶狭間の戦いですが、それを後世に明確に伝承するには、残念ながら最後の詰めが甘かったのです。

それで現在、桶狭間古戦場を名乗る場所が2箇所あります。どちらも愛知県ですが、ひとつは豊明市栄町南舘とよあけしさかえちょうみなみやかたにある桶狭間古戦場伝説地[以下伝説地(豊明市)]で、もうひとつは名古屋市緑区桶狭間北三丁目なごやしみどりくおけはざまきたさんちょうめに所在する桶狭間古戦場公園[以下公園(名古屋市緑区)]です。

両者は違う行政区域に所属しているものの、地図を見ればお分かりの通り、現在愛知朝鮮中高級学校のある辺りの上を通って両地点を直線で引いてみれば、お互いの距離は1㎞程度しか離れていません。だったら一層のこと、両方引っくるめて桶狭間古戦場跡ということにしてしまっても良さそうなものですが、そう簡単にはいきません。

なぜならば近距離同士といえども所属する自治体が別々なので、それぞれの自治体の思惑や意地といったものがあるからです。もちろんどちらも、歴史書をはじめとするそれなりの根拠に基づいて正統性を主張しているのです。

伝説地(豊明市)は国定史跡であり、公園(名古屋市緑区)はそうではありません。伝説地(豊明市)はこの違いをさりげなく強調しているようですが、残念ながらこの事実をもってしても伝説地(豊明市)が有利であると断言することはできません。

伝説地(豊明市)は昭和12(1937)年、国の史跡として認可されました。当時の文部省は現地入りして詳細な調査を行った結果でした。

しかしこの当時すでに古戦場とされる場所について諸説が飛び交うようになっていて、必ずしも従来の定説が全てとは言い切れなくなっていました。そこで文部省は、この地を「古戦場」と断言するのではなく、「古戦場”伝説地”」と含みを持たせて史跡に指定したのです。

一方で文部省は、この時公園(名古屋市緑区)付近の調査も平行して行ったところ、こちらも”伝説地”として認定するのに吝かでないということになりました。ところが公園(名古屋市緑区)がこの曖昧な提言に難色を示したため、実現はしませんでした。

それで結果としては伝説地(豊明市)のみが国指定の史跡となりました。しかしながら文部省としては、両者とも国が指定するのに遜色ない史跡だったわけです。

オケハザマの戦い

決戦当時この辺りには、「おけはざま山」なる丘陵があったらしいのですが、現在ではすっかり宅地開発が進み、山らしい山は見当たりません。それでも周囲とは明らかに高低差のある両市境一帯が、今川義元が襲撃される直前まで休憩していたと歴史書が示す「おけはざま山」のあった地帯だと推定できています。

伝説地(豊明市)は「おけはざま山」の北東部、公園(名古屋市緑区)は南西部辺りにありますから、どちらも「おけはざま山」の戦いの跡地として相応しくない理由はありません。そもそも桶狭間の戦いという呼称自体が後世に名付けられたものでしょうから、本来は「おけはざま山の戦い」という呼び名の方がより的確であるはずです。

桶狭間という地名は、地図で確認すれば現在名古屋市緑区に広範囲で存在していますが、その辺りにその昔おけはざま山と呼ばれる漠然とした丘陵地帯があったにせよ、そもそも永禄3年の時代に地名としての桶狭間が存在していたのかどうか、正確なところは何とも言えません。ですから公園(名古屋市緑区)が桶狭間にあるからと言って、それが全ての正統性を示すわけではありません。

桶狭間の合戦 歴史を変えた日本の合戦 コミック版日本の歴史 / 加来耕三 【全集・双書】

一方で伝説地(豊明市)の所在地である南舘一帯は、ずっと以前は屋形はさまやかたはさまと言われていたそうです。それが時を経て、屋形の部分がの文字に変わって現在に残っているらしいのですが、この屋形とは御屋形様の屋形、つまり今川義元のことを指していると言われています。

今でも続く桶狭間の戦い

かねてより論争の絶えなかった今川義元絶命の地ですが、伝説地(豊明市)は従来主流であった迂回奇襲攻撃説に従い、時間差二段攻撃で義元を討ち取ったという考え方に基づきます。即ち捨て駒同然で先陣を出して今川軍の目を欺き、自らは急遽方向転換して後方に控えていた今川義元の本陣を攻撃したという考えです。

この考え方は旧日本陸軍などでも支持され、戦法のお手本のひとつとして評価されていたくらいでした。ところが近年になって織田信長に関する一次資料の研究が大きく進んだ結果、信長は奇襲攻撃などしておらず、正面から正攻法で義元を討ち取ったという解釈に変わり始めました。

公園(名古屋市緑区)はこの正面正攻法説を拠り所としていて、ここ20~30年はそちらが主流となっています。しかしこの流れをもって伝説地(豊明市)が古戦場ではなかったと決めつけることは決してできません。

なぜならば、どちらが主流であろうとなかろうと、現存の資料に詳細な記述がされていない以上、それは所詮想像の範疇を越えられないからです。他の明確な資料なり物証なりが新たに発見されない限り、この論争に終止符を打つことは不可能なのです。

桶狭間の戦い、それは日本史上に大きな影響を与えました。あまりにもセンセーショナル過ぎて、460年も時を経た今でも、違う形となって続いているのです。

この記事のまとめ

  • 桶狭間の戦いは、日本史上において有名な出来事の最たるものである。
  • 残された資料に明確さを欠くため、決戦場所については諸説存在する。
  • 今川義元最期の地である古戦場を名乗るところが2箇所あり、現在の住所は豊明市栄町南舘と名古屋市緑区桶狭間北三丁目で別々の自治体である。
  • 地図で確認すれば両者が1㎞程度しか離れていないのが分かる。
  • どちらがどうという結論は、現時点では容易に出すことができない。

同じ名目の古戦場がふたつあるということは、何だか歯がゆい感じもしますが、考えようによっては、ミステリーを紐解くようなもので、関心を持てば持つほど楽しみも倍になるというものでしょうね。

是非あなたも両方の古戦場を覗いてみて下さい。そしてあなた自身で謎解きに参加してみて、戦国情緒を満喫して下さい。

なお古戦場がふたつあるといっても、今川義元に影武者がいたとか、義元自身が2度狙い討ちされたとかいったことでは決してありませんので、悪しからず。