徳川御三家とは何?尾張と紀伊と水戸の徳川家の事というのは本当?

御三家とは、各方面において秀でたものを3つに絞り込んで称える呼び方です。近頃では人物に対してだけではなく、或いは実体のあるものないもの問わず、あらゆる分野で使われています。

そうした御三家という呼称は、江戸時代の徳川御三家に由来します。親藩、譜代、外様合わせて300人近く居たと言われる大名の中でも、特にこの三家が何事においても別格に扱われ、優遇されたためです。

徳川御三家の誕生

慶長8(1603)年、徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任命され、江戸幕府を創設しました。以後260余年間、将軍職は徳川宗家によって世襲されます。それで江戸幕府のことを徳川幕府と言ったりもします。

家康には11人の男子がいましたが、家康の次に将軍となり、家督を継いだのは三男の秀忠です。長男は織田信長に謀反の疑いをかけられ切腹しており、二男は豊臣秀吉の養子に出されていましたので三男が後釜となったのです。

四男と五男は共に20代という若さで世を去りました。六男は長生きこそしたものの、家康にも秀忠にも疎んじられ、表舞台には登場しません。

七男と八男に至っては、どちらも6歳で夭折してしまいます。それで結局三男秀忠を補佐できる兄弟は九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房の3人になりました。

義直は尾張徳川家の、頼宣は紀州徳川家の、そして頼房は水戸徳川家のそれぞれ始祖となり、徳川の治世を支えていくのです。

徳川御三家の「三家」とは

徳川御三家とは、分かりやすく言ってしまえば、2代将軍徳川秀忠の弟3人による分家のことです。

徳川御三家には当初水戸家は含まれておらず、三つのうちの一つは将軍を輩出する徳川宗家であっただとか、徳川3代将軍である家光の弟、忠長が継いだ駿府徳川家であるとか、もっともらしい意見も散見されますが、これらは辻褄の合わない話です。

宗家は宗家であって分家ではありません。御三家とはあくまで分家の三つのことです。それから順番から言っても、水戸家を差し置いて駿府家がしゃしゃり出て御三家の一員としての名乗りを上げるのもおかしな話です。

だから徳川御三家とは、紛れもなく尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家のことだと断言していいのです。駿府徳川家というのは、領地がある分御三家に似てはいますが、立場的には8代将軍徳川吉宗が作った御三卿のようなものでしょう。

ちなみに徳川忠長の駿府徳川家というのは、素行の悪かった忠長が改易させられたことによって1代限りで消滅してしまいます。以後駿府の地は幕府直轄領となり、幕府直属の旗本が駿府城代として赴任し続け、まつりごとを任されることになります。

ところでよく徳川宗家を指して徳川将軍家という言葉を用いているケースを目にしますが、これは同じことを意味しています。しかし徳川将軍家という言い方は、分派的なイメージを与えかねません。

現に先程述べましたように、御三家の中にこの将軍家を含めて考える人もいるわけです。ですからそうした危険性を避けるためにも、ここでは徳川宗家という言葉を使います。

実際第15代将軍慶喜などは、先代亡き後徳川宗家の家督は速やかに継いだものの、将軍職は半年以上も空席にしたままでした。この場合将軍家の家督は継いでいるのに、将軍の地位は継いでいないとなると、ちょっと矛盾したようなニュアンスになってしまいます。

ところでこの最後の将軍は、大政奉還後に政治的混乱の責任を取らされた形で、家督を御三卿の一つ、田安徳川家の家達に譲っています。よって江戸幕府終焉後の徳川宗家は家達が引き継いでいます。

慶喜は一度家督を剥奪されたのですが、その後大政奉還の功績が認められ、徳川宗家とは別の徳川慶喜家の創設を認めらます。これは宗家からの分家と言っていいのですが、この時すでに江戸の時代はとっくに幕を閉じています。

徳川御三家の意義

ところでこの徳川御三家ですが、当初の役目は、あくまでも将軍の補佐にあります。徳川宗家を分家が三位一体となって強力にバックアップしていくという意味です。

よく尾張徳川家が御三家の中では筆頭格であると言われますが、それには明確な判断基準があったのではなく、分家三人衆の中では尾張が一番の年長者であり、領地の石高も最大であったためだと思われます。

宗家より将軍の後継が途絶えた場合は、尾張か紀伊から宗家に養子を出して将軍にするという決まりがあったのですが、尾張は筆頭格と言われながらも、徳川治世260余年の中で、結局ただの一度も将軍を輩出していません。

実際に宗家の御家断絶の危機を救ったのは紀伊徳川家であり、その人は8代将軍吉宗です。以降最後の15代目まで、紀伊徳川家の系統が続くのです。

なお最後の将軍慶喜は、水戸家出身ではありますが、御三卿の一つである一橋家に養子に出されていますので、将軍継承の観点から見ればあくまでも紀伊の流れをくむ一橋家からということで、水戸家からではありません。

しかし水戸家には他に重要な役割がありました。万が一の場合の、次の将軍の候補にはなれませんでしたが、将軍に万が一の事態が生じた時の将軍の代行を任されていたのです。水戸徳川当主が、天下の副将軍と呼ばれる所以はここにあります。

おわりに

こうして見てみますと、尾張徳川家は徳川御三家の筆頭と言われながらも最も地味であり、これといって世間に広く知れわたっているような話もあまりありません。

紀伊56万石、水戸35万石に対して、尾張は62万石です。名古屋城下の現在の名古屋市は、人口200万人を超える大都市であり、三者の中でも抜きん出ています。それなのにこんなに地味なのは、とても不思議です。

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