神武天皇生誕地から東征した理由とルートそして即位の場所と年!連綿と続く国体の始まり!!

日本の歴史を語る上で、天皇の存在は欠かせません。天皇とともにある日本の歴史ですが、一番初めにその地位に就いたのが神武じんむ天皇です。

神武天皇は現在の皇室の礎となる大和朝廷の始祖とされていますが、元々この辺りの地にいたのではありません。生誕地は遥か西方の山の中であり、その界隈で勢力を張っていましたが、辺境の地では本当の政はできないとの理由をもって、東へ向かって旅立ったのです。

この名高い冒険譚が神武東征です。東征を終えたその年、神武はその場所で宮を営んで即位し、初代天皇となったのです。

ここでは日本が日本国家として誕生するに至った神武東征ルートを追ってみたいと思いますが、それには日本の歴史に神武が登場するまでの経緯も知っておく必要があるでしょう。少々長い記事になりますが、どうか最後までお付き合い下さい。

古事記と日本書紀

今上陛下は第126代天皇であらせられますが、その125代前には初代の天皇がいたということになります。歴代天皇の在位期間はまちまちで、わずか8ヶ月足らずという短命に終わった第39代弘文天皇の例もありますが、仮に近代以降で最も短い第123代大正天皇に基準を合わせてひとり15年としても、今上陛下に至るまでには1875年を要します。

そして実際にはもっとずっと前まで遡ることになります。その一番初代神武天皇の即位の経緯は、記紀と総称される古事記日本書紀によって知ることができます。

古事記は日本最古の書物として、その後しばらくしてできあがった日本書紀とともに歴史の教科書に記載されている程重要なものです。だからそれぞれの名を聞いたこともないというような人は誰ひとりいないくらい知名度が高いはずなのですが、その内容についてある程度でも正確に把握している人というのは案外少ないのではないでしょうか。

我が国最古の歴史書

古事記編纂の関連人物は天武天皇と太安万侶おおのやすまろ稗田阿礼ひえだのあれで、完成は和銅5(712)年、日本書紀の場合は天武てんむ天皇、川島皇子かわしまのみこ草壁皇子くさかべのみこ、そして舎人親王とねりしんのうが編纂に関与した人物であり、養老4(720)年に完成したといったことを知っておくのも確かに重要でしょうが、このような受験のための外面上の暗記的知識よりも、もっと大事なことは、そこに何が書かれているのかといった内面的要素です。その中身はどちらも、我が国土の創立から始まる歴史書であるということです。

フィクションに垣間見るノンフィクション

ここに記された我が国建国の由来を、ただのフィクションだと侮ってはいけません。確かに神話の部分は現実離れした話であったり、神と人間が入り交じったりしてどこからが実際の話なのかはっきりしない部分もあったりしますが、それらは抽象的な表現では有るものの、きっと何かの根拠に基づいているのに違いないと思うのです。

もし仮にある覇者が自分史を残すとしたらどのような展開を繰り広げるでしょう。大抵は自分もしくは自分の一族を正当化するために、きっと良いことばかりを書き連ねるでしょう。

ところが古事記にしても日本書紀にしても、そこに記載されているのは綺麗事だらけの単なる英雄譚ではありません。日本が紆余曲折しながらも国家として成立していく過程を善悪織り混ぜて物語っているのです。

古事記と日本書紀の違い

ほぼ同時期にでき上がった古事記と日本書紀の違いは、極めて単純な言い方をすれば、前者は関係者のための内々の史料、後者は隣の大国を意識した対外的な史料だったということです。そのせいもあってか、古事記の方が文学的要素がより強く感じられます。

また古事記が変体漢文表記、つまり漢文に倣って漢字だけの表記にはなっているものの、漢字の音訓を使い分けるなどして日本語独特の語彙や語法を含んだ表記になっているのに対して、日本書紀は大陸人が読んでもおおむね理解できる正格漢文で表記されています。そのため特に人名などの固有名詞では、用いられている漢字が違っていたりします。

歴史的事実がほぼ同じ

しかし両者には、神代から第33代推古天皇の時代までの同じ出来事が記載されていて(日本書紀は第41代持統天皇の時代まで続く)、個別の事柄によって記述の濃淡はあるものの、基本的な流れの明確な相違はありません。ほぼ同時期に成立したものといっても、編纂に関わった人物は違うのですが、それにも関わらず、ふたつの別個の史料が示す歴史の流れの根幹に食い違いはないのです。

ましてや日本書紀においては、勅命による正史なわけですから、適当なことが書いてあるはずがないのです。よって記紀は開闢以来の我が国の歴史を忠実に記載したものであると先ずは考えるべきであり、難解な部分はその信憑性を真っ先に疑うのではなく、その奥底に秘めた真意を探るべきだと思うのです。

日本という国家の歩み

我が国の歴史は、天皇とともにあります。天皇が神のような存在だった時代、天皇が国土を統一した時代、天皇その地位をめぐって骨肉の争いをした時代、天皇が有力豪族の傀儡だった時代、天皇が為政者たらんとした時代、天皇が二人いた時代、天皇が大義名分とされた時代と、悠久の歴史の間には様々な天皇の姿がありました。

大御心

しかしおおむねいつの時代であっても大御心は国家と人民に向けられています。特に武家が台頭し政権運営した鎌倉時代以降は、ずっと権力を持たない最高責任者であり続けました。

それはいわば、企業でいうところの代表取締役相談役の如き存在だったという表現を使えば分かりやすいかも知れません。そして今では、代表権すら持たない相談役最高顧問といったところでしょうか。

天皇は国体

現憲法下では、天皇は我が国の象徴と定められています。すなわち天皇とは、日本国そのものということです。

だから今上陛下をはじめ天皇はおおむねいつの時代でも、無私無欲で我が国の平安と我が国民の安寧を祈り続けているのです。我が国の皇室が他国の王室と全く性質を異にして羨望の眼差しを受け、我が国民に敬われ続けているのはこのためです。

それが日本の国体であり、日本の歴史が天皇とともにある所以です。その天皇の位に一番初めに就いたのが神武天皇です。

神武天皇登場まで

とは言え歴史は神武天皇が始めるわけではなく、神武天皇にも先代がいて、その先代にも先代がいて、そのまた先代にもやはりという具合に、どんどん遡ることができます。こうして辿り着いた先は天地開闢てんちかいびゃくの時です。

天地開闢

ここからは主に古事記に準じて進行します。宇宙の初めであめつちがまだ混沌としていた時に、高天原たかまのはらという天界にアメノミナカヌシ、タカミムスビ、そしてカミムスビの三柱が生まれました。

次に地から天へ向かって萌え上がったものの中から、ウマシアシカビヒコヂとアメノトコタチの二柱が生まれました。前の三柱と合わせてこれらの五柱に性別はなく、姿を見せることもなかったが、天界を治める天津神あまつかみであり、高天原で生まれた特別な神であることから、別天津神ことあまつかみとされています。

神世七代(かみよななよ)

それから今度は、地上においても次々と神が生まれました。初めは別天津神と同様性別のない神が二柱、それから続けて男女の性別がある五組十柱の神が生まれました。

五組は対ですから二柱で一代と数え、最初に地上で生まれた国津神くにつかみを総じて神世七代といいます。最後の七代目が、イザナギとイザナミです。

淤能碁呂島(おのごろじま)

別天津神は地上の様子を見ていましたが、未だ漂うばかりの地上を安定させるようイザナギとイザナミに命じて、美しく装飾された矛を授けました。重責を担ったイザナギとイザナミは天と地の堺である天浮橋あめのうきはしの上に立ち、授かった矛を地に向かって突き下ろしてぐるぐる掻き回し、それを引き抜くと滴り落ちた雫が凝固し、それが日本の基となる島となりました。

それを見届けたイザナギとイザナミは、天浮橋から地上に降りて家を建て夫婦として生活し、他にも島々をたくさん生み出し、そして子もたくさん生みました。しかし最後となった火の神を出産した時、イザナミは大火傷を負って絶命してしまい、黄泉国よもつくにへ行ってしまいました。

黄泉国と禊(みそぎ)払い

イザナギは悲しくて、黄泉国まで行ってイザナミを連れ戻そうとしてその暗闇のなかでイザナミを見つけました。しかしその時交わしたイザナミとの約束を守らず灯りを灯てしまったためイザナミの醜く穢れた姿を見て幻滅してしまい、イザナミと大喧嘩の末地上に舞い戻り、穢れを払うため竺紫つくし日向ひむかで禊をしました。

その時洗った左目からアマテラスという女神が、鼻からハヤスサノヲという男神が生まれ、アマテラスは高天原を、ハヤスサノヲは海原を治めるようイザナギに命じられました。ところがハヤスサノヲは乱暴者でありながら泣き虫でイザナギの言うことを聞かず、亡き母神のもとへ行きたいと言ってイザナギを激怒させ、追放されてしまいました。

誓約(うけい)の勝負と天石屋戸(あめのいわやと)

そこでハヤスサノヲは、母神のもとへ行く前に姉神に別れを告げにいこうと思い、高天原へ行きました。それを知ったアマテラスは、ハヤスサノヲが高天原を攻めに来ると思い、武装して待ち受け勝負しましたが、ハヤスサノヲは自分の勝ちを主張し乱行を重ねてまくったため、アマテラスは非常に強いショックを受け、天石屋戸に籠ってしまい、長い間暗黒の世が訪れてしまいました。

八俣大蛇(やまたのおろち)の退治

狼藉の限りを尽くしたハヤスサノヲは結局高天原も追放され、出雲国の肥の河の、その河上の鳥髪というところに天降りました。そして川を上って行くと、クシナダヒメという美しい娘を間に挟んで、国津神である父親のアシナヅチと母親のテナヅチの老夫婦が泣いているところに出くわし、ハヤスサノヲがなぜ泣いているのかと尋ねると、老夫婦は毎年この時期にやってくる八俣大蛇にこれまで7人の娘を食べられ、最後に残ったこの娘も間もなく食べられてしまうからだと言いました。

ハヤスサノヲはクシナダヒメとの結婚を条件に八俣大蛇の退治を請け負い、見事成功します。八俣大蛇を泥酔させて剣で八つ裂きにすると、尾の部分から大刀が出てきたので、それをアマテラスに献上しましたが、それは天叢雲剣あめのむらくものつるぎ、すなわち三種の神器のひとつである草薙剣くさなぎのつるぎです。

ハヤスサノヲはクシナダヒメと結婚し、出雲に宮を建て子をもうけました。その6世を隔てた子に、因幡いなばの白兎を助けた逸話で有名なオホクニヌシがいますが、この後ハヤスサノヲは、かねての願い通り根堅洲国ねのかたかすくにへ赴いていきました。

国作り前の受難

オホクニヌシは兄たちの八十神やそがみに疎んじられて、策略を受けて一度ならず二度までも命を落としますが、その度に母親が見つけ、母親の尽力によって生き返ります。そして二度目に甦った時、先行きを案じた母親の勧めにより、根堅洲国にいるハヤスサノヲのもとに救いを求めに行きます。

そこで取り次いだハヤスサノヲの娘のスセリビメは、若くて端整な容姿のオホクニヌシに一目惚れしてしまいます。それが癪に触ったハヤスサノヲは、オホクニヌシを困らせてやろうと試練の場を与えますが、スセリビメに助けられたりしながらその試練を乗り越えます。

命がいくつあっても足りないと思ったオホクニヌシは、ハヤスサノヲの太刀と弓矢を持って、スセリビメを連れてそこから逃れようとしますが、ハヤスサノヲは直ぐに気付いて追いかけてきます。そして黄泉比良坂よもつひらさかという坂の上まで来てオホクニヌシを遠くに見つけると、オホクニヌシが手にしているハヤスサノヲの太刀と弓矢を使って性悪の八十神を追討し、スセリビメを嫁にして国の頭となり、宇迦能山うかのやまの麓に御殿を建てて住めとオホクニヌシに叫び命じました。

オホクニヌシは言われた通りにし、なおも次々に四方を平定し国を広げていきました。そんなある日、出雲国の御大岬みほのみさきという海辺にいると、海の向こうから供を連れて船を漕ぎ寄せてくる、体のとても小さな神様と出会いました。

海から来た神との国作り

その神様は口を開かず自分が誰であるか教えてくれませんでしたが、色々調べてみると、別天津神のカミムスビの子のスクナビコナであることが分かりました。そこでオホクニヌシはカミムスビのもとを訪ねてみると、確かに自分の子であると答え、改めてスクナビコナに向かって、オホクニヌシと兄弟になり一緒に国を開いていけと命じました。

オホクニヌシもその言葉に従って、スクナビコナとともに国作りを進めていきましたが、ある時スクナビコナは、急に常世国とこよのくにという海の向こうの遥か彼方へ行ってしまいました。オホクニヌシはがっかりして、自分独りではとても思い通りに国作りなどできないと嘆いていると、やはり海の向こうから、ハヤスサノヲの子のオホトシという神が現れて、自分を大和やまと御諸山みもろのやまの上に祀ってくれさえすれば、国作りを手伝ってもよいと言い、オホクニヌシはその言葉の通りにして、ふたりでまたどんどんと国を開いていきました。

高天原からの使者

その様子を見ていた天空のアマテラスは、そのうちに下界の豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくにを治めるのは自分の子のアメノオシホミミだと言い出して、すぐに降っていくようにアメノオシホミミに命じました。アメノオシホミミはすぐに準備に取り掛かりましたが、天浮橋まで来て下界を見下ろすと、そこでは力のある大勢の神々が独自に暴れまわっていて、下界は乱れていました。

それでアメノオシホミミはあわてて引き返してきてその様子をアマテラスに告げると、アマテラスアメノオシホミミを遣わす前に他の神々を下界に送り込んでは騒ぎを鎮めさせようとします。その辺の経緯がああでもないこうでもないと展開されますが、ここでは割愛しておきます。

国譲り

そしてようやく下界が落ち着いた頃、アマテラスは再びアメノオシホミミを、豊葦原瑞穂国を治めるべき者に指名しますが、丁度その頃アメノオシホミミとその妻のヨロズハタトヨアキヅシヒメとの間に世嗣ぎが生まれたため、アメノオシホミミは我が子の方が豊葦原瑞穂国を統治するのに相応しいとアマテラスに提言しました。アマテラスはそれを聞き入れ、その子が成長するのを待って命を下し、ついにこのヒコホノニニギが降臨する運びとなりました。

天孫降臨

その際サルタビコという国津神が、道案内のために光を煌々と照らして天浮橋まで迎えに来ていました。この時アマテラスは、後に三種の神器と呼ばれる八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたのかがみと、かねてハヤスサノヲがかねて八俣大蛇を退治した時に献上した草薙剣を自分の分身代わりにヒコホノニニギに授け、他に大勢の神々を供につけて下界に送り出しました。

天降ったヒコホノニニギは初め日向国ひむかのくに高千穂たかちほの険しい山峰に着き、それから段々と山を下って平地の海の方へ向かって行き、同じ日向国の笠沙岬かささのみさきに辿り着きました。その地がすっかり気に入ったヒコホノニニギは、そこを住み処と定めました。

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ある時ヒコホノニニギはその岬で、オホヤマツミの子のコノハナノサクヤヒメに出会い、その若い娘が気に入って結婚しました。やがてコノハナノサクヤヒメは子供を授かりましたが、その子があまりにも早く生まれそうになるので自分の子ではないのではないかと疑心暗鬼になりました。

そこでコノハナノサクヤヒメは、産殿うぶやを密閉しなおかつそこに火を放って燃え盛る中で出産しましたが、乱暴な生み方をしても何事もなく無事であったことで、身籠った子がヒコホノニニギの子であることを証明しました。そして火中で生まれた三兄弟は順に、ホデリ、ホスセリ、ホヲリと名付けられました。

海幸彦と山幸彦

長兄のホデリは漁が得意でよく海に行っては釣りをし、末弟のホヲリは猟が得意でよく山に行っては狩りをしました。ある時末弟は長兄に向かって、それぞれの持ち場も道具も取り替えてみようではないかと提案し、ホデリは何度か断ったものの、あまり何度も言われるので、とうとう提案を受け入れることにしました。

ところがお互いの役目を交代すると、それぞれが全く上手くいかなかったどころか、ホヲリは兄の大事な釣り針を海の底に沈めて失くしてしまいました。ホヲリは失くした針の代わりに自分の持っていた剣を打ち壊したりして新しい針をたくさん用意したのですが、ホデリは激怒していて、全く許してくれません。

綿津見(わたつみ)の宮殿

困り果てたホヲリが海辺で泣いていると、その場に現れたシホツチという潮路を司る神が事情を聞いて気の毒に思い、海の神の御殿の井戸の上の桂の木に登って待っていれば、海神わたつみの娘のトヨタマビメがきっと助けてくれると言い、小舟を作ってホヲリを乗せ、舟を押し出してくれました。それで言われた通りに木の上で待っていると、井戸に水を汲みに来たトヨタマビメの侍女がホヲリを見つけました。

ホヲリは水が欲しいと言って侍女から水桶を受けとると、その中に自分の首飾りの玉を口に含んで吐き出しました。するとその玉は底にひっついて離れなくなり、侍女は仕方なくそのままその水をトヨタマビメのもとに持っていきました。

事の経緯を説明され、トヨタマビメが門口まで見に行くと、確かにそこに容姿端麗な神がいたので、父神に話をしたところ、そのお方は降臨された貴い神の子に違いないと言って御殿の中に丁重の限りを尽くして招き入れ、トヨタマビメを嫁に差し出しました。それでそのままそこで、ホヲリはトヨタマヒメと不自由なく暮らしていましたが、3年が経ったある晩にふと失くした釣り針のことを思い出し、深いため息をつきました。

そんなホヲリの思い悩んだ姿を初めて見たトヨタマビメは心配になって翌朝父神に相談し、海神がホヲリに尋ねて事の次第を知りました。海神はホヲリの失くしたホデリの釣り針を見つけてやり、意地悪な兄を懲らしめて服従させる術を授けてホヲリを地上に帰しました。

故郷に帰ったホヲリは海神の言いつけ通りにして兄のホデリに釣り針を返してやったところ、ホデリは次第に貧しくなってホヲリを憎み攻め寄せましたが、その度にますます惨めな状況になっていき、とうとうホヲリしもべになることをホヲリに誓いました。このホデリは筑紫つくしに住んだ隼人はやとの祖先であり、それ故隼人はその後ずっと朝廷に仕えることになります。

鵜葺草(うがやくさ)の産殿での出産

ホヲリがトヨタマビメを残して海から去った後、身重のトヨタマビメが天空の貴い神の子を海の中で生むわけにはいかないと言って、ふいにホヲリのもとへやって来ました。ホヲリが急いで海辺に鵜の羽を屋根に葺いた産殿を建ててやるとすぐにトヨタマビメは産気づき、二人の子を生みました。

この時ホヲリはトヨタマビメとの約束を違えて、お産の最中に巨大なサメに姿を変えたトヨタマビメを見てしまったので、トヨタマビメは非常に恥ずかしく思って地上にいられなくなり、お産が済むと海に戻ったきり二度と姿を現しませんでした。

ただ地上に残した我が子が心配でならなかったので、自分の代わりに妹のタマヨリビメを遣わせて養育させました。御子は産殿の鵜の羽の葺草を葺き終わる前に生まれたことから、ヒコナギサタケウガヤフキアへズ・・・・・・・・と名付け、やがて成人すると、養母のタマヨリビメを嫁にし、四人の男子をもうけました。

神武天皇誕生

長男の名はイツセ、二男はイナヒで三男はミケヌ、そして四男はワカミケヌといい、二男は海の遥か向こうの常世国というところに渡ってしまい、三男は母親の故郷の綿津見の国へと行ってしまい、四男が日向の高千穂に宮を建てて地上を収めていました。

後に和風で神倭伊波礼毘古天皇かむやまといわれびこのすめらみこと、漢風で神武天皇じんむてんのう諡号しごうされる初代天皇はこの四男のワカミケヌです。以上は古事記に基づいて話を振り返りましたが、日本書紀でも細部はともかく大筋に違いはありません。

神武天皇の系譜

ここまで小難しい名前のたくさんの神々が出てきて、その神々が何度も出てきて時代感覚を失ったり、あるいは1回きりの登場で後世の歴史との因果関係が判然としなくて、個々の節の物語はそれなりに理解できなくはないものの、全体を通して見た時には何だかよく分からないと感じてしまうのも確かだと思います。しかしこれらはきっと何かの事象があったことに対する抽象的な言い伝えであり、決して単なるフィクションとか作り話などではないと思うのです。

天地開闢から我が国に天皇という存在が生まれるまでの流れは、難解な展開と思われつつも、かみ砕いてしまえば単純なものです。神武天皇はイザナギの子孫だということです。

日本の国土を造形したイザナギの娘が天津神のアマテラスで、その孫が地上に降臨したヒコホノニニギで、その曾孫にあたります。イザナギの六世孫になります。

別名をトヨミケヌ、或いはカムヤマトイワレビコといいます。また日本書紀ではヒコホホデミとかサヌとかいった具合に、色々な呼び名があるのですが、これ以降は分かりやすさを優先して、敢えて漢風諡号の神武を用いることにします。

神武東征

さて、イザナギが黄泉国から脱出して最初に降りたったのが日向です。その後ハヤスサノヲやオヲクニヌシらの出雲での逸話が展開されますが、ヒコホノニニギが天から降臨したのはやはり日向です。

即ち今の日本国家の礎は、現在の宮崎県を拠点といていた部族が他の地域の部族を懐柔したり制圧したりして築いたものだと言えるのです。出雲の話が絡むのは、恐らく以前には出雲に有力部族がいたものの、後になって日向の部族によって調和が図られたのではないでしょうか。

いずれにせよ日本の悠久の歴史の要となる今日の皇室の始まりの、更にその始まりは、もちろん現在の東京ではなく、ちょっと前までの京都でもなく、そしてその前の奈良でもなく、ここ宮崎にあったのです。神武東征とは、ある時そこから新天地を求めて一族共々旅立ち、橿原で即位し宮を築いくまでの行程のことを意味します。

今移動したとしても決して容易ではない距離ですが、遥かに遠い大昔ならばなおのことで、実に長い年月が費やされました。神武東征ルートを地図を参照しながら、神武生誕地から追ってみましょう。

なお以下では断定的な表現の仕方をしていきますが、全て推測に基づく説明です。地名などについては現在の呼称です。

日向国生誕地

神武の生誕地は、宮崎県にある霧島連山の、その東麓にあたる高原町です。ここにある皇子原神社おうじばるじんじゃ(地図①地点)には、神武が生まれた産殿がありました。

東征前

東征する前までは、神武は高千穂で宮を営んでいました。かつて神武天皇宮と称した宮崎神宮みやざきじんじゃ(地図②地点)は、その高千穂宮たかちほのみや跡地であり、毎年10月に催行される御御幸祭は神武さまと呼ばれ、県内最大級のお祭りとなります。

東征決意

ある時神武は、西の端に片寄った日向国よりも天下をもっと平安に治めるためにはどこにいればいいのだろうと考え、兄のイツセと相談した結果、一族郎党そろって東の方に行ってみようということになりました。神武の旅立ち、神武東征の始まりです。

船出

宮崎県日向市の立磐神社たていわじんじゃ(地図③地点)は神武東征の船出の地です。美々津みみつ港の岸壁近くに鎮座する神社の境内にある岩に腰を下ろして、神武が船出を指揮しました。

豊国(とよのくに)宇沙(うさ)での歓待

それから大分県宇佐うさ市に到着してウサツヒコとウサツヒメの兄妹に出会い、両者は神武一行のために饗宴を催しました。宇佐神宮うさじんぐう(地図④地点)は宴のために作った足一騰宮があった所です。

筑紫国に一年

宇佐からうつって次に着いた所は、福岡県です。遠賀郡おんがぐん芦屋町の岡湊神社おかみなとじんじゃ(地図⑤地点)には、神武が一年間滞在した岡田宮おかだのみやがありました。

安岐国(あきのくに)で七年

岡田宮を去った後、多祁理宮たけりのみやには七年間滞在しました。広島県安芸郡府中町にある多家神社たけじんじや(地図⑥地点)はその宮跡です。

吉備国(きびのくに)では八年

更に広島県から岡山県に遷り上って、そこでの生活は八年にも及びました。岡山市南区にある高嶋神社たかしまじんじゃ(地図⑦地点)には八年間滞在した高嶋宮たかしまのみやがありました。

速吸門(はやすいのと)を経由

高嶋宮を出て明石海峡あかしかいきょう(地図⑧地点)にさしかかると、潮路を熟知したこの地方の国津神であるウヅビコと出会い、船頭に召し抱えます。サヲネツヒコの名を授けられたその者は、後世の大和国造やまとのくにのみやつこの祖となります。

畿内に到着

そして一行は明石海峡を抜けて大阪湾に入り、急流を渡って生駒山いこまやまの西麓にある日下くさか蓼津たてづというところに上陸しました。ところがここで土豪のナガスネビコが待ち構えていて、一戦を交えることとなりますが、その場所が東大阪市日下町の、孔舎衙小学校くさかしょうがっこう辺り(地図⑨地点)です。

紀国(きのくに)男之水門(おのみなと)での出来事

日の神の御子が太陽の方角に向いて戦ったからよくなかったという、痛手を負った兄のイツセの提言で迂回して逆向きに戦うことにした一行は、生駒山を陸路で越えるのを諦め、南方に海上移動しますが、和歌山県の紀ノ川の河口付近まで来たとき、イツセはついにこの世を去ります。和歌山市小野町の水門吹上神社みなとふきあげじんじゃ(地図⓾地点)はイツセ絶命の地であり、同市和田にある竈山神社かまやまじんじゃ(地図⑪地点)の裏山にはイツセの陵墓があります。

霊剣入手

神武一行はそこから更に迂回し、紀伊半島に沿って和歌山県新宮市しんぐうし熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃ(地図⑫地点)辺りに上陸します。そこでは大熊に出くわし、毒気にあたって皆気を失ってしまいますが、そこにタカクラジという者がやって来て、天津神のアマテラス・タカミムスビ・タカミカヅチらから夢枕で授かった霊剣布都御魂ふつのみたまを神武に差し出すと、神武は正気に戻りその霊剣で大熊どもを成敗したのでした。

八咫烏(やたがらす)

そしてその時タカミムスビから神武に八咫烏が遣わさせて、神武一行はそのヤタガラスに従い吉野川の下流まで至り、そこで土着の者どもを従えて、奈良県宇陀市うだしに入りました。それは八咫烏神社やたがらすじんじゃ(地図M⑬地点)のある場所ですが、ここではエウカシとオトウカシの兄弟に騙し討ちにされそうになったものの、結局オトウカシが神武に服従したため事なきを得ました。

宇陀に到着するまでは深山を踏み越え、道を穿りながらの難行でした。それ故この進軍を、特に宇陀の穿うがちと言っています。

畿内先住部族の帰順

更に進軍して土着民のツチグモを討つと、天津神のニギハヤヒがやって来て神武に帰順しました。ニギハヤビが娶ったトミヤビメはナガスネビコの妹でしたが、その間にできた子のウマシマヂは物部連もののべのむらじの始祖です。

ニギハヤビは天津神の御子で、天磐船あまのいわふねに乗って天降り、ナガスネビコを従えて河内国を治めていました。饒速日命墳墓にぎはやぎのみことふんぼ(地図⑭地点)が奈良県生駒市にありますが、このことは元々大和地方を、神武が現れる前には別の部族が支配していたことを示唆しています。

大和朝廷の始まり

さて、ニギハヤヒを味方に付けた神武はとうとう大和の地に入り、そこで宮を営みました。大和三山のひとつである畝傍山うねびやまの麓に鎮座する、奈良県橿原市かしはらし橿原神宮かしはらじんぐう(地図⑮地点)は、その白檮原宮かしはらのみやがあった場所です。

こうして神武は東征の長い旅の末、橿原で天下を治め、つまりは即位して神武天皇となりました。これが現在の皇室の元である大和朝廷の始まりであり、初代天皇の誕生の経緯です。

日本書紀によれば、即位は辛酉年1月1日、即ち西暦紀元前660年2月11日現在2月11日が建国記念の日という祝日であるのは、そうした所以によるものです。

この記事のまとめ

  • 古事記と日本書紀は天地開闢以来の国史を扱う記述物であり、両者の歴史的事実に大きな隔たりはない。
  • 古事記は私的な読み物であり、日本書紀は公的な正史である。
  • アマテラスの五世孫、ヒコホノニニギの曾孫が神武天皇である。
  • 神武が高千穂宮にいたが、西の外れの辺境の地ではあまねく天下を安定させることができないとの理由で東の方へ新天地を求めた。
  • 神武東征のルートは生誕地の宮崎県を出発点として、大分県―福岡県―広島県―岡山県―大阪府―和歌山県を経由し奈良県を終点とする。
  • 営んだ宮は白檮原宮と呼ばれ、場所は奈良県橿原市の橿原神宮のある辺りとされている。
  • 即位は辛酉年1月1日即ち西暦紀元前660年2月11日であり、その日は現在「建国記念の日」という名称の祝日になっている。

記紀をここまで読み進めてみますと、驚愕の事実に気が付くはずです。我が国を平定した初代天皇は天空の神の子だということはすでに述べましたが、それはつまり神武天皇自身が神であるということです。

もちろんそんなことが現実にあるはずがないことは分かりきっています。これは暗喩であり、我が民族の貴さを述べようとしているのでしょうから、むしろ誇らしいことで、そこに敢えて目くじらを立てる必要もないと思います。

ところがかつて演説の場で、日本は神の国であると述べた首相がいてすこぶる顰蹙を買ったらしいのですが、もしそうならば逆に自国の古い歴史をよく勉強していると、私は誉めてあげたいくらいです。何故ならば正史に、ちゃんとそう記述されているのですから。

これは何も神道のみを唯一信仰せよと強要しているわけでも何でもありません。そんなことはひと言も書かれていませんし、そもそも八百万やおろずの神は、如何なる宗教に対しても寛容なのです。