最後の将軍徳川慶喜の特異性!二条城大政奉還の理由とその後の余生!!

最後の将軍として名高い第15代江戸幕府将軍徳川慶喜とくがわよしのぶ。しかし慶喜をもっと広角的に捉えて形容するならば、特異な将軍とでも呼んだ方がよいでしょう。

最後というのはもちろん特異な理由のひとつになりますし、他にも特異たる所以は多々あります。二条城での執務、武家の頭領でありながら700年近くも続いた武家による政権運営を放棄した大政奉還等、枚挙に暇がありません。

大政奉還の理由は、世情に急激な変化が生じて260年もの長きにわたる旧態依然とした徳川家の封建的支配体制に歪みが生じた結果ということもありますが、素直に政権返上しようと思っていたわけではありません。慶喜はその後のことを計算高く読んでいました。

しかし結局のところ大政奉還後は世間との関わりを絶って檜舞台に上がることはなかったのですが、それでも引退した時は現代感覚で言えばまだまだこれからという程若い年齢でした。慶喜のその後を追ってみても、その人生の特異性をしっかりと知ることができるはずです。

最後の将軍

かの司馬遼太郎の数ある中の有名な小説のひとつである「最後の将軍徳川慶喜」は、長編の多い司馬作品の中では比較的短めであり、とても読みやすい作品です。小説をそのまま読み上げて音声にした、いわゆる朗読本もありますので、徳川慶喜について手始めに知りたい人にはうってつけです。

最後の将軍とは正に言い得て妙ですが、この言葉にどれ程重みがあるのか考える機会はあまりないように見受けられます。徳川慶喜は確かに江戸幕府最後の将軍でしたが、そもそも将軍とは何かと考えてみれば、それは征夷大将軍の略語であり、元々は蝦夷えみしを征討するという意味の朝廷の官職です。

武家が台頭し朝廷の外でその政務を司る幕府ができてからは、幕府が朝廷の権威を利用します。そしてその幕府の頭領が将軍となり、鎌倉幕府で9人、室町幕府で15人、そして江戸幕府で同じく15人が輩出されました。

将軍は約700年の長きにわたってほぼ継続的に、日本の実質的な最高権力者でした。その最後の将軍、即ち日本史上の最後の征夷大将軍が徳川慶喜であります。

ところでそれ以降将軍がひとりもいないのは、江戸幕府の崩壊のみに結論付けられがちですが、それは正確ではありません。以降武士という身分階級がなくなってしまったせいだとも思われがちですが、武士無き後も防衛のための軍隊ができ、治安を維持するための警察ができたわけですから、軍人や警察官の中から将軍職に就く人がいたとしても、別におかしな話ではありません。

しかし将軍とはそもそも、形式的であれ何であれ朝廷より拝命される役職です。ところが朝廷側も明治新政府樹立とともにその形体を大きく変えてしまって、征夷大将軍という律令国家成立以来の旧態依然とした官職を廃止してしまったので、二度と征夷大将軍になる人はいなかったというのが一番の理由です。

とは言えこの大世復古の大号令で宣下された事実を全面に出して指摘している人を、残念ながら未だ多く見たことがありません。ですからこのことは、是非心に留めておいて下さい。

二条城

江戸城は徳川将軍家の邸宅であると同時に、幕府の庁舎でもあったわけですから、将軍家の当主であると同時に幕府の長でもあった将軍は、当然江戸城に居を構え、江戸城に詰めていました。

ところがこの十五代将軍だけは違います。慶喜は将軍在任期間中ただの一度も江戸城にいたことはありません

将軍職就任前

慶喜は先代将軍在任中には、幕府より将軍後見職に任命されましたが、将軍徳川家茂とくがわいえもちは文久3(1663)年6月、第三代将軍徳川家光とくがわいみつ以来237年ぶりの上洛を朝廷より命じられたのを最初に都合三度の呼び出しを受け、三度目の上洛後は病気を悪化させて、再び帰東することなくそのまま帰らぬ人となりました。この頃慶喜は、初め幕府より将軍後見職を任命されていたため同様に上洛し、その後朝廷より禁裏御守衛総督きんりごしゅえいそうとく摂海防禦指揮せっかいぼうぎょしきの両役職を仰せつかっていたので、ずっと京に居たのです。

将軍職就任後

そして将軍家茂が薨去したことにより、そのまま京で将軍職を後継し、二条城で政権を運営し、そして二条城で将軍職を辞職したのです。二条城は正式名称を元離宮二条城という徳川宗家の平城でしたが、江戸城が本庁舎とすれば、その時の二条城は支庁舎であり、平たく言ってしまえば、慶喜は社長になって終始出張営業していたということでしょう。

第十五代江戸幕府将軍徳川慶喜の将軍職在任期間、慶応2(1866)年12月5日から慶応3(1867)年12月9日まで。江戸城に戻ったのは鳥羽伏見の戦い後の慶応4(1868)年1月。しかもそこに滞在したのはほんの短い間だけです。

江戸幕府将軍数ある中でも特筆に値する将軍のひとりであることは間違いありませんが、在任期間は約1年しかなく、最も短命に終わっているのは意外な事実です。一方でほんの150余年前までの我が国には、征夷大将軍という職責を担った人がいたということも、紛れもない事実です。

大政奉還

大政奉還の大政とは天下の政事のこと、そして奉還とは返し奉ることです。将軍として大政奉還を敢行したのは徳川慶喜ただひとりで、当たり前と言えば当たり前かも知れません。

しかし700年近くにも及んだ国家のあり方を根本的に覆すことは、やはり当たり前とは言えません。尋常でないことを慶喜はやってのけたのです。

大政奉還について少し掘り下げて言及しましょう。大政奉還とは何が何に、誰が誰に謹んでお返し申し上げるのかといえば、それは幕府が朝廷に、ひいては将軍がみかどに大政を奉還するのです。

経緯

日本というのは稀にみる不思議な国で、鎌倉時代の初めから江戸時代の終わりまで、ずっと違和感なく二重構造体制が維持されてきたのです。しかもそれで両者の間に紛争が無かったのは、正しく権威と権力がうまく機能していたからです。

二重というのは、朝廷と幕府のことであり、朝廷が権威の場ならば幕府が権力の場だったのです。大政奉還とは、国家の体制を鎌倉時代以前にお戻し致しましょうということです。

その背景を極めて簡潔に語るとすれば、黒船来航に端を成す異国侵略に対する恐怖から攘夷論が生まれ、それが何故か尊皇論と一体になり、国内情勢までが混沌となった挙げ句幕府不要論が大勢を占めるようになったためです。それでついには世情に抗い切れなくなり、大政奉還することになったのです。

理由

それは慶応3年10月13日(西暦1867年11月8日)の、二条城二の丸大広間における出来事。当日には薩摩藩に、そして翌日には長州藩に討幕の密勅が下されており、英邁えいまいな慶喜がそれを察知して先手を講じたとの見方もあります。

ところで幕府としてはこの幕末と呼ばれる期間、決して手をこまねいていたわけではなく、従来の縛りを度外視した優秀な人材を適材適所に送り込み、懸命そして賢明に対処していました。明治新政府樹立以後のいわゆる薩長史観が長年幅を利かせた影響が大きく、つい最近まで幕府は無能であったかのような概念が刷り込まれてきましたが、実際はその真逆であり、幕府は実によく事に当たっていました。

そもそも実際に諸外国との難しい対応を余儀なくされながらも政務を司っていたのは幕府ですから、実務を伴わない主義主張だけでは、うまくいくはずがないと思っていました。大政奉還の本当の理由が、実はそこにあるのです。

即ちこの緊迫した国情の下、大政奉還したところで朝廷がすぐさま滞りなく政務を執行できるはずはなく、必ず朝廷は自分を引き続き便りにしてくるだろうと読んだのです。

ところが敵には岩倉具視いわくらともみという身分は低いながらも老獪ろうかいな公家がいて司令塔となり、更にその上をいく罠を仕掛けてきます。結局慶喜の目論みは外れ、自ら身を引き檜舞台に上がることは二度とありませんでした。

廃止

なお慶喜ご大政奉還上表を明治天皇に奏上したのが翌日の慶応3(1867)年10月14日で、明治天皇がこれを勅許したのが更に翌日の15日で、皆さん早合点しがちですがこの日が将軍最後の日なのではありません。慶喜は将軍職辞職願をこの後の10月24日提出しますが、それでもその時は慶喜の思惑通り、朝廷は慶喜を頼りにしていたので簡単に受理されません。

それで結局慶喜の将軍職辞職願が勅許されたのは12月9日の、王政復古の大号令という岩倉具視が仕掛けた大罠によってです。この時同時に幕府の廃止も宣下されたのです。

この時徳川慶喜の満年齢は、弱冠30歳。この歳で天下を動かし、この歳で隠遁したのですから、実に驚くばかりです。

その他

ここまで徳川慶喜が特異な将軍である理由を詳細に説明してきましたが、そう呼ぶ根拠は他にもまだまだあります。以下簡潔に列挙していきます。

水戸徳川家

徳川家は江戸幕府初代将軍徳川家康とくがわいえやすが将軍になる前に創設したもので、元々は松平姓でした。その後徳川家は家康の三男である二代将軍徳川秀忠とくがわひでただ宗家となる徳川将軍家、家康の九男と十男そして十一男であり秀忠の弟たちである徳川義直とくがわよしなお徳川頼宣とくがわよりのぶ徳川頼房とくがわよりふさの三人がそれぞれ始祖となった御三家の別称で知られる尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家、秀忠の三男で三代将軍徳川家光とくがわいみつの弟である徳川忠長とくがわただながが始めた駿河徳川家(忠長切腹のため一代で断絶)、家光の三男と四男で四代将軍徳川家綱とくがわいえつなの弟である徳川綱重とくがわつなしげ徳川綱吉とくがわつなよしが始祖となった甲府徳川家(二代当主徳川綱豊とくがわつなしげが六代将軍徳川家宣とくがわいえのぶとなったため断絶)と館林徳川家たてばやしとくがわけ(綱吉が五代将軍となって実子が後継したものの夭逝したため断絶)の御両典、八代将軍徳川吉宗とくがわつなよしの二男と四男であり九代将軍徳川家重とくがわいえしげの弟たちである徳川宗武とくがわむねたけ徳川宗尹とくがわむねただ、それに家重の二男で十代将軍徳川家治とくがわいえはるの弟の徳川重好とくがわしげよしの三人からそれぞれ始まった田安徳川家一橋徳川家、そして清水徳川家御三卿、更に明治になって認められた徳川慶喜家の11家が興りました。

3家はすぐに断絶してしまっていますから、実質8家ということになります。そのうちひとつは本家であり、分家のひとつは明治時代に創設されたものです。

つまり分家筋の御三家と御三卿の6家が本家の血筋の予備となって、本家を支えていく構図だったのです。これだけあれば、徳川家はいつまでも安泰だと思いきや、なかなかそういうことにはなりません。

この頃は今と違って子だくさんでしたが、その分相対的に寿命が短かったので、子孫を何代も残していくのは簡単なことではありませんでした。しかも徳川を名乗ることができるのは、明治にできた徳川慶喜家は別として、全て家督を継いだ者のみに限られましたから、今でも徳川姓の人というのは、非常に少ないのです。

事実将軍家でも直系の血筋の人、つまり出自を遡って二代将軍徳川秀忠に辿り着く人は七代目で途絶えています。その時のために最初御三家があって、その当事者となった八代吉宗が、自らの直系で御三卿を新設しました。

なおこの時代は家を守ることが何より大事でしたから、直系が途絶えたとしても血縁筋から養子を迎え入れたり、やはり血縁筋から単に家督を引き継ぐためとして呼ばれたりして家系を守ったのです。

徳川慶喜もそのひとりでした。水戸家当主第九代徳川斉昭とくがわなりあきの七男として生まれましたが、満10歳になる直前に一橋徳川家の世嗣せいしとなり、一橋徳川家第九代当主となります。よって慶喜は一橋家から輩出された将軍ですが、一橋家からは十一代将軍徳川家斉とくがわいえなりに次いで二人目です。

ところが正当な一橋家の血を受け継いだ家斉と違って、慶喜は家系を繋ぐために来ただけの遠縁の者に過ぎません。慶喜の出自は水戸家であり、一橋家と同時に水戸家から世に送り出した将軍ということになります。水戸は最後の最後で、最初の水戸からの将軍を出したのです。

宗家と将軍家

徳川宗家と徳川将軍家は、本来一緒です。徳川宗家とは徳川将軍家のことであり、徳川将軍家とは徳川宗家のことです。

徳川将軍家とは江戸幕府将軍を輩出する徳川家であり、そこが徳川の宗家です。よって将軍になるということは、徳川将軍家の当主になったということであり、それはつまり家督を継いで徳川宗家の当主になったということです。

しかしながら慶喜だけは違い、自らの都合により自らの手でこの不文律を侵しました。通常将軍が交代すれば、将軍職も家督も速やかに次に引き継がれます。

ところが慶喜は、先代家茂の薨去後家督は早い段階で継ぎましたが、将軍職の方はいつまでも固辞し続けました。いわば徳川家宗家の当主にはなったものの、徳川将軍家の当主ではなかったという本来完全に矛盾した状態作りを、とても巧妙にやってのけたのです。

七代から八代、十代から十一代、そして十三代から十四代の時のように、直系が途絶えた場合には若干の空位の期間が生じたこともありました。慶喜とて同じ直系でない引き継ぎでしたが、慶喜は意図的に将軍職だけの引き継ぎを拒んだのです。

それで結局徳川将軍家の当主は存在するものの将軍が存在しないという妙な状態が3ヵ月以上も続きました。前代未聞です。

後継者

徳川将軍家の当主たちは、実子の男子がいれば、通常はそこに家督を継がせます。慶喜には10男11女の21人もの実子がいたにも関わらず、田安徳川家から形式的に養子に迎え、第七代田安徳川家当主でわずか4歳だった徳川家逹とくがわいえさとに家督を譲ります。

しかし将軍職は既に廃止された後でしたので、家逹が将軍になることはもちろんありませんでした。この時点で徳川将軍家であった徳川宗家は将軍家の看板を捨て、単に宗家ということになりました。

いずれにせよ慶喜は、実子がいたにも関わらず宗家の家督を直系に継がせなかった稀な将軍ということです。ただしそれは賊軍の総大将という汚名を被ったためであり、後年名誉を回復してからは、明治政府より公爵を授けられ、新たに徳川慶喜家の開始を認められます。

新家創設

慶喜は幼少の頃より文武両道で叡智の人と称えられ、神君家康公の生まれ変わりと高く評価されていました。その家康は松平から改姓して新たに徳川家を興しましたが、慶喜もやはり、徳川家の別家ながらも新家を興してその始祖となりました。

新家を興した家康以来の将軍経験者である慶喜。正に神君家康公の生まれ変わりと言えるかも知れません。

年齢

慶喜が将軍職に就任した時の満年齢は29歳でしたが、それでもこれは特別若いわけではありません。それで将軍職に就いていたのはほんの1年だけですから、むしろ引退時の満30歳という年齢の方が気になります。

江戸幕府で将軍を務めた15人の中で、生前にその職を次に譲って引退したのは、直後に亡くなった場合を除けば初代家康、二代秀忠、十一代家斉、そして十五代慶喜の4人いて、その時の年齢は家康が64歳、秀忠が44歳、家斉64が歳ですから、慶喜の引退年齢が最も若いということになります。しかも慶喜以外の3人は引退後も大御所という政事に無関係な立場ではありませんでしたが、慶喜の引退後に関しては、は世俗とはほとんど無関係のものでした。

そうは言っても、やはり元は上様うえさま。引退後は先様さきさまと呼ばれていつまでも周りから大事にされて悠々自適の人生を送り、76歳まで生きて天寿を全うします。これは江戸幕府歴代将軍の中で、最も長寿です。

その後の余生

将軍職を辞してから寿命が尽きるまでの46年は、それまでの30年よりも1.5倍も長い人生です。前半世の英雄譚はよく耳にしますが、それよりも長い後半生はどのように過ごしたのでしょうか。

大政奉還後

先ずは思惑外れて新政府の閣僚から完全に除外された上に、新政府の挑発に乗って伏見鳥羽の戦いに総大将として指揮するものの、敵の掲げる錦旗に怯んで大坂城に敗走。表向き旧幕軍への徹底抗争を熱弁するものの、裏では数名の重臣を従えて大坂城を夜な夜な抜け出し大坂湾に停泊中の旧幕軍艦海陽丸に乗り込み江戸に退却。

ここですでに将軍でない慶喜は、将軍就任以来初めて江戸城に入ります。慶喜は錦旗を掲げた官軍によって朝敵と見なされ、徳川慶喜追討令の下に命を狙われており、前々将軍徳川家定とくがわいえさだの正室の天障院てんしょういんや、前将軍正室の和宮かずのみやに面会して延命工作を図ります。

そしてその江戸城からもすぐに立ち去り、上野の寛永寺に移って謹慎し、恭順の意を示します。敗戦処理は勝海舟かつかいしゅうに丸投げでしたが、勝が全てを丸く納めて、命だけは何とか取られずに済みました。

謹慎生活

それでもその後生まれ故郷の水戸に移ってまた謹慎。そして宗家の徳川家逹が駿府に所領を与えられたことで、更に駿府に移ってまた謹慎。

約1年半にわたる謹慎生活を経て、ようやく謹慎解除となったのは明治2(1869)年9月28日。そのまま静岡に移住します。

名誉回復

そして明治5(1872)年にはやっと名誉が回復され、明治35(1902)年には徳川慶喜家の創設が認められるとともに貴族院議員に就任し8年間国政に参与します。

その間明治30(1897)年には東京に移住しており、翌明治31(1897)年には大政奉還以来の30年5ヵ月ぶりに、明治天皇との謁見を果たします

悠々自適

正に波瀾万丈の人生で、名誉回復後の後半生は国会議員も勤めたりしましたが、基本的には有り余る程の手当も支給されて何事にも束縛されず、自由気ままな日々を過ごしました。

大正2(1913)年11月22日、感冒に急性肺炎を併発させて76歳で永眠。謹慎以降は渋沢栄一しぶさわえいいちなどの一部の人を除いて、旧幕臣が面会に訪れても会おうとせず、大政奉還から鳥羽伏見の戦いを経て江戸に戻り恭順するまでの経緯の本人のみぞ知る真相は、明らかになることはありませんでした。

名誉回復を成し遂げ、新たに徳川慶喜家を創設した最後の将軍、徳川慶喜。その子孫はカメラマンで慶喜の曾孫に当たる徳川慶朝とくがわよしとも氏が第四代当主だった平成29(2017)年まで続き、断絶しました。

この記事のまとめ

  • 「最後の将軍徳川慶喜」という司馬遼太郎の小説は朗読本もあって徳川慶喜を知るには入門書としても最適であるが、最後となった理由には朝廷側の事情によるところが大である。
  • 将軍徳川慶喜は終始二条城に詰め切りであり、将軍職在職中一度も江戸城に居たことがない。
  • 慶喜の大政奉還の理由には新たな政治議会の一員に総裁の立場で参加する下心もあったが、その後慶喜が表舞台に立つことはなかった。
  • 上記のことも含めて将軍徳川慶喜には結果的にもその人にしか成し得なかったことが多数あり、特異な将軍と呼ぶこともできる。
  • 将軍職を辞職した時の年齢は弱冠30歳であり、謹慎を経た後のその後の余生は悠々自適であった。

武家の最高峰に聳え立つように君臨していた元征夷大将軍で、鳥羽伏見の戦いにおいては旧幕軍の総大将でもあった徳川慶喜が、なぜ恥辱を受けるのを覚悟の上で味方を欺くような真似をしてまで敵前逃亡をし、身の潔白を何が何でも証明しようとしたのでしょう。引退した後もその地位に身を置いた人らしく、過去の成り行きについては一切の言い訳もしない代わりに、核心についても多くを語ることはありませんでした。

そんなこともあって人物の良し悪しについては綺麗に評価の分かれる慶喜ですが、朝敵の汚名を着せられながらも明治新政府の運営が落ち着きだすと名誉を回復され、その後も徐々に新たな名誉を授けられました。それは即ち、慶喜こそが明治という新時代を築いた一番の功績者であった証であろう、と思わずにいられません。