名古屋必見からくり人形の徳川宗春!なぜ暴れん坊将軍吉宗と対立した?

江戸時代中期、現在の名古屋市を中心とした尾張藩があり、その第七代藩主に徳川宗春とくがわむねはるという人物がいました。宗春は自由主義経済に基づき名古屋の城下を活気付け、その様子は現在からくり人形となって名古屋の町で毎日再現されています。

当時の江戸幕府の最高権威者は、幕府第八代将軍である徳川吉宗とくがわよしむね。暴れん坊将軍の名で親しまれている吉宗の倹約令による閉鎖的なものとは正反対の政策を打ち出した宗春は、吉宗との比較もあって「名古屋の暴れん坊将軍」として今でも地元で英雄視されています。

なぜ宗春は一見幕府の意に反するような行いに出て、将軍吉宗と対立するような態度を取ったのでしょうか。それにはこの頃にあった将軍後継問題が大いに絡んでいたとも言われています。

その宗春に、幕府から蟄居謹慎隠居の大変厳しい沙汰が下されます。それは従来の、吉宗の激怒の結果だという考えに、異論を唱える余地は不思議とありませんでした。

しかし吉宗は、案外と宗春を思いやっていたことも明らかになっています。宗春謹慎の理由の通説に、一石を投じてみたいと思います。

特別な存在の尾張藩

徳川宗春は尾張徳川家第七代当主であり、表高61万9500石、実石は100万に迫ったとされる尾張藩の第七代藩主です。江戸幕府第八代将軍徳川吉宗の治世下、吉宗の推進する倹約政策に唯一異を唱えたとされる大名です。

江戸時代の政治体制は、将軍を最高権力者に置く徳川家の江戸幕府が、地方の領主と主従関係を結び、幕府が所領を禄として与えて統轄する形態、いわゆる幕藩体制を取っていました。藩の数は江戸末期には266にまで至りましたが、その数だけ藩主もいたということです。

大名の中でも特別な尾張藩主

これらの藩主は、ごくわずかな例外を除いて、石高1万以上の領地を幕府より拝領されました。いわゆる三百諸侯といわれるこれらの大名は、大名というからには広大な領地を有しているかといえばそうでもなく、全体の2割弱がその最低石高の1万石、同様に全体の約3分の1が2万石以下であり、10万石以上の大名はわずか2割にも満ちませんでした。

そのことからみても、尾張藩というのは桁外れの所領を有していたことが分かり、尾張藩主はただの大名ではないことがお分かり頂けるかと思います。一番大きかったのは、いわゆる加賀100万石と言われた前田家の加賀藩ですが、こちらは外様大名であり、確かに特別な存在ではありましたが、尾張藩とは幕府との関わりの度合いが全然違うのです。

徳川一門の中でも特別な尾張徳川家

そもそも大名には石高の大小とは無関係に家格というものがあり、徳川宗家(徳川将軍家)と縁戚関係にある一門の親藩徳川家康とくがわいえやすが天下人になる以前から家康の家臣であった家系の譜代、それ以外の外様に分類され、この順番に格付けされます。そして親藩や譜代はほんの数えるばかりで、そのほとんどが外様大名です。

さらには一門の中でも尾張藩、紀州藩、水戸藩の藩主は格別な存在であり、他の一門があくまで松平姓であったのに対し、宗家の他にはごく短い期間にあった例外を除きこの三家だけが徳川を名乗ることができました。後に田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家も創設されますが、これらの徳川御三卿は領地を与えられておらず、位置付けとしては宗家の家族ということですから、大名ではありません。

徳川御三家は宗家の分家であり、宗家と同等に近い存在なのです。さらに尾張徳川家は、その成り立ちから御三家の筆頭格とされていましたから、尾張藩主というのは居並ぶ大名の中でも、藩の規模と家格の序列の両面からみても、別格中の別格だったということがお分かり頂けるでしょう。

御三家には幕府も抑圧的な態度は取れず、特に筆頭格の尾張徳川家に対しては、ほぼ対等な立場で接しなければなりません。徳川宗春を語るに際しては、幕府と尾張藩のそうした関係を、十分念頭に置いて置くべきではないかと思います。

幕府と尾張藩

徳川宗春は元禄9年10月28日(西暦1696年11月22日)、尾張徳川家第三代当主にして尾張藩第三代藩主だった徳川綱誠とくがわつなのぶの二十男として尾張名古屋で生を受けます。母親は梅津うめづという名の側室で、幼名は萬五郎まんごろうといいました。

元禄12(1699)年、父綱誠が48歳(満年齢。以下全て同様)で急死すると、綱誠の十男が弱冠11歳で尾張徳川家の家督を継ぎました。この尾張藩第四代藩主となった徳川吉通とくがわよしみちは、ことのほか異母弟の萬五郎を可愛がり、夕食の際はいつもこの末弟を共にしたといいます。

尾張徳川家の過渡期

萬五郎は宝永5(1708)年、元服前にもかかわらず、通幸みちゆき(のち通顕みちあき)と通温みちまさ2人の兄同様、吉通の名から一文字をもらい、通春みちはるとなりました。元服するのは正徳3(1713)年冬ですが、この年は通春にとって、また尾張藩にとっても特筆すべきものとなりました。

まずこの年の春、通春は名古屋での長い生活を終えて江戸詰めとなり、小姓を抱える身分となります。そして既述の通り冬には元服するのですが、その間に尾張藩は目まぐるしく揺れ動きます。

その年の夏、藩主吉通が25歳で薨去します。幼い嫡男が家督を継ぎ幼名のまま尾張藩第五代藩主徳川五郎太とくがわごろうたとなりますが、在任わずか3ヶ月足らず、その秋3歳にも満たない幼年のうちに逝去してしまいます。

五郎太の死によって、尾張徳川家の正統は宗家よりも先に途絶えました。しかし同時期、宗家の正統にも危機が訪れていたのです。

徳川宗家の過渡期

この頃江戸幕府では、宝永6(1709)年第三代江戸幕府将軍徳川家光とくがわいえみつの四男である第五代将軍徳川綱吉とくがわつなよしが薨去して29年近くにわたる治世に終止符を打ち、徳川家宣とくがわいえのぶが第六代将軍となるものの在職期間4年に届かず正徳3(1713)に年薨去、家宣の4歳の嫡男があとを継いで第七代将軍徳川家継とくがわいえつぐとなるという、こちらも目まぐるしい展開でした。

家光死後の幕府では家光の長男徳川家綱とくがわいえつなが後継して第四代将軍となり、この辺りまでは宗家も安泰でしたが、以降はやや不安定となって、家綱には跡取りがいなかったため弟の綱吉が一悶着ありながらも次の将軍の座に就き、その綱吉にも跡取りがいなかったので、綱吉の兄で綱吉が将軍になる前に他界していた綱重つなしげの嫡男、すなわち綱吉の甥にあたる家宣が次の将軍に据えられたのです。家宣は非常に清廉潔白な人物だったそうで、亡くなる前の病床で、自身にかろうじてひとり幼い嫡男がいたものの、古来幼主の時に天下が安泰した試しもないし、天下将軍の事案を私物化したりするのは好ましくないと考え、嫡男が成人するまでの間はそれにふさわしい別の人物に天下の政を任せた方がよいのではないかと側用人に下問しました。

この将軍になるにふさわしい宗家以外の人物こそ、尾張藩第五代藩主の徳川吉通だったのです。吉通は若いながらも非常に英邁えいまいなことで知られていましたし、徳川家としての正統性をみても遜色はありません。

しかし家宣の侍講であった新井白石あらいはくせきがこの将軍の最後の望みに異を唱え、結局は吉継が順番通りに将軍に据えられます。その約1年後、尾張藩では吉通が饗宴後に突然吐血し、近侍の医者にも見放されて看病すらされず、5日後に悶死するのです。

尾張徳川家当主の相次ぐ不幸

この吉通の不審死には、この当時将軍の座を虎視眈々と狙っていた、紀州藩が絡んでいたと言われています。紀州では、綱吉の世子が早世して持ち上がった将軍後継問題の時に、綱吉の娘婿であった第三代紀州藩主徳川綱教とくがわつなのりが候補にあがったという経緯もあります。

いずれにせよ尾張藩では吉通が世を去り、後継ぎの五郎太もすぐ夭逝し、尾張徳川家は五郎太の叔父であり吉通の弟である通顕が家督を継いで、第六代当主徳川継友とくがわつぐともとなります。一方宗家の方は、先代家宣がいみじくも案じていた通り、将軍家継が在任3年後の正徳6(1716)年に7年に満たない短い生涯を閉じ、この時宗家創設以来の宗家の血を受け継ぐ後継者は事実上途絶えたのです。

新生江戸幕府

宗家断然の危機が迫りましたが、宗家の分家である徳川御三家の役割はそのような時のためにあります。もう少しで将軍になるところだった兄吉通の前例もあり、御三家筆頭格の尾張藩主継友は、宗家を継いで将軍になるのは自分であると信じて疑いませんでした。ところが紀州藩が今で言うところのロビー活動を、特に大奥で盛んに行い、蓋を開けてみれば第五代紀州藩主徳川吉宗が宗家の後継者に選ばれてしまったのです。

ちなみに吉宗は、以前将軍後継問題時に名のあがった綱教の弟になります。紀州家でも尾張家同様兄弟共々がこの問題に関わっていくわけです。

不運の続く尾張徳川家

こうして1度ならず2度までも将軍の座を逸した尾張徳川家。継友自身はあまりくよくよせず後ろを振り返らない性格だったのか、吉宗が第八代将軍に就任した後は尾張藩の財政の建て直しに注力し、名古屋の町の発展に一役を担ったのです。

しかし一方で弟の通温などは、尾張家の一員として激しい憤りを覚え、幕府に対する過激な言動を強めていきました。さすがにあからさまな幕府批判はお咎めを受ける結果となり、名古屋に呼び戻されて幽閉されるに至って酒浸りの自暴自棄な生活を送った挙げ句、健康を害して享保15(1730)年に31歳になるのを待たずに死去しました。

そしてもうひとりの弟である通春、後の徳川宗春も、密かに義憤に駆られていたとみられています。それはその後の宗春の数々の行動から、そう推測されるのです。

藩主になった宗春

元服した通春は、将軍のご家門衆として江戸詰めを続けました。その間七代将軍家継にお目見えもし、八代将軍吉宗にも気に掛けられ大切にされました。

享保14(1729)年に尾張徳川家の御連枝ごれんし、つまり徳川宗家の分家の分家であり、尾張藩の支藩である陸奥梁川藩の大久保松平家が断絶した時、吉宗の強力な後押しによって梁川藩主に迎え入れられ、大久保松平家を再興させます。またやはり吉宗の推挙により、官位も順調に上げていきます。

そして翌享保15(1730)年、世子のいない尾張藩主継友が39歳を目前にして病死すると、継友の遺言により尾張徳川家の家督を継いで、尾張藩第七代藩主徳川通春となります。その後将軍のいみなから一文字を賜り、ついに徳川宗春となるのです。

名古屋の英雄徳川宗春

吉宗に目を掛けられていた宗春ですが、尾張家を相続するやいなや、ことごとく幕府の方針に真っ向から対抗するような態度を示します。それは簡単に言ってしまえば、吉宗の業績の代名詞ともいえる享保の改革を推進する幕府の徹底した倹約政策に対して、宗春はその著書「温知政要おんちせいよう」に示す通り、真逆の規制緩和による開放政策です。

まず江戸屋敷においては、早速家督相続後の翌享保16(1731)年冬、藩邸内での歌舞曲演奏や夜間外出の許可を出したりします。その春国入りする際には、名古屋の城下が近づくと一行に華麗な衣装を纏わせ、また自身は金縁で黒づくめの衣装に漆黒の馬にまたがるという、まるで千両役者のような出で立ちで街道を練り歩きました。

宗春の藩政

国入り後は各種祭りを奨励し、1ヶ月半にもわたる盆踊りを行わせたり、夜の城下に提灯を明々と灯せさせたり、芝居小屋や遊廓の建設を許可して、民衆の楽しみを第一にして政策を進めました。

巡視に出た折りは、朝鮮通信使の姿を真似してみたり、歌舞伎や能の派手な衣装を着てみたり、とびきり長い煙管をくわえながら白い牛にまたがって町に現れたりして民衆を喜ばせました。

当時のそのような華やいだ様子を再現したからくり人形が名古屋の大須というところにあります。定刻になると繰り広げられる6分間ものショータイムは圧巻で、観るものを飽きさせません。

また民衆だけでなく、家臣たちにも芝居や芸事を覚えさせたりしました。宗春が藩主となって、名古屋の町は大いに賑わい、活気付きました。

容易に手出しできない幕府

翌享保17(1732)年参勤交代で江戸に戻ると、今度は長男の節句祝いということで、武者飾りを江戸江戸の町民に見てもらうために江戸屋敷を開放しました。その時神君家康公が家康の九男である藩祖徳川義直とくがわよしなおに拝領した幟旗まで立てました。

幕府の意に反する宗春の数々の振る舞いを、もちろん幕府も静観していたわけではありません。国許では附家老の成瀬正太なるせまさもと竹腰正武たけこしまさたけの両名を通じて、宗春に度々諫言させました。

元来御三家は徳川家の一族ですから固有の家臣というものはおらず、家来といえるのはせいぜい小姓程度であり、幕府から配置された附家老つけがろうが政務や軍事の補佐を行いました。ですから附家老とは、幕府直属のお目付け役なのです。

また江戸表においては、嫡男の節句祝いの後幕府が使者を遣わせ、反幕的な態度を続ける宗春を詰問したとされています。この時宗春は、使者の伝える上意に対しては恭しく承ったものの、上意伝達後の使者自体との懇談の場においてはお構いなしに持論を展開して反論し、使者を唖然とさせたと言われています。

しかしこの有名な話は、後になってからの作り話だという見方が今では優勢です。なぜならばどの歴史的資料を調べてみても、この話に見合うような史実を今のところ見つけることができていないからです。

それでも宗春は、結局は幕府より蟄居謹慎の命が下され、隠居させられることとなりますが、それは宗春が江戸と名古屋を4度も往き来し、藩主になって9年目を迎えた元文4(1739)年正月のことです。幕府といえども御三家、それも筆頭格の尾張藩主に対して沙汰を下すにはそれだけ慎重にならざるを得なかったのです。

ふたりの暴れん坊将軍

このように幕府に煙たがられながらもそんなことは全く意に介さず、自分の信念を貫き通そうとした徳川宗春は、名古屋の暴れん坊将軍と称されています。もちろん同時代の幕府最高権力者徳川吉宗に模して付けられた呼び名ですが、本家本元の方も、実際に粗暴であったわけではなく、当時としては類い稀な大男であったため、単にその外観の印象からそう呼ばれているとのことです。

いずれにせよこのように何かと対比される両名であり、なぜ宗吉に対抗するような態度を宗春は取っていたのかというと、それは将軍後継問題で抱いた義憤を晴らすためであり、最後は吉宗に厳しく突き放される結果になったというのが通説ですし、海音寺潮五郎かいおんじちょうごろうをはじめとする著名な作家たちの徳川宗春を題材にした小説も、ほとんどがその説に従っています。それらの書物はもちろん小説としては非常に面白いのですが、その通説をそのまま鵜呑みにして史実と思ってしまって、果たしてよいものなのでしょうか。

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まず何よりも吉宗は、藩主になる前から宗春を何かと可愛がり引き立てています。宗春が藩主になれば、慣例とはいえすでに一騒動起こした後にも関わらず、編諱へんきを授けて祝っています。

吉宗と宗春

宗春といえば自由奔放なイメージばかりが付きまといますが、公式行事にはいつも正装で赴いていましたし、幕府の法令には家臣にも遵守するよう厳しく命じていました。幕府の緊縮政策に真っ向から対抗したかに見える真逆の開放政策も、初めのうちの起爆剤として用いただけで、やがて人々の意識が消費から浪費に変わってしまったと見るやいなや、一転して規制を強化し出し、政策を変更していきました。

吉宗を手本とした宗春

そんな頃である享保20(1735)年秋には、吉宗が薬用人参と甘草の苗を下賜して、宗春はこれらを藩の薬園に植えて大事に育てて栽培に成功させ、自らが好んで居住した下屋敷にも移植して楽しみました。蟄居謹慎の命を下した後も吉宗は、度々宗春のことを気遣い、貴重な品々の贈り物をしたり、不足しているものはないかだの、鷹狩りや魚釣りができなくて気鬱にならないかだのと伺いをたてたりしていました。

そのような数々の事実から、吉宗は宗春が憎くて仕方がなかったわけでは決してありませんし、宗春とて吉宗を恨んで対立する姿勢を示していたとは考えられないのです。むしろ宗春は吉宗を尊敬さえしていて、その姿勢を見倣おうとしていたのではないかと思われるのです。

共通した改革意識

吉宗は紀州徳川家当主から宗家の家督を継ぎ、将軍となりました。その際紀州藩も紀州徳川家も従弟の宗直むねなおを第六代として存続させましたので、紀州藩士はそのほとんどが引き続き藩に残り、吉宗と行動を共にしたのは数十名程度に過ぎず、元々幕臣であったものたちが、そのまま吉宗の家臣となりました。

その時吉宗は紀州由来の家来衆を、幕僚としての身分は低いながらも、いつでも将軍に直接お目見えできるお庭番などとして自分の側に置きました。幕政というものは本来老中たちによる合議によって執行されるものですが、吉宗はこの制度を事実上骨抜きにして、こうした側用人同様の者たちを上手く使いながら、将軍自ら政務の主導的立場になろうとしました。

一方藩主になった宗春も、吉宗同様やはり独自色を出すことにこだわったのではないかと思うのです。その手始めが、附家老の意のままにはならないぞという意思の表れとも言える徹底した開放政策だったわけです。

宗春は小姓を重用して側近とし、吉宗を模範とするかのような専制政治を目論みましたが、あまりに性急で独創的なやり方に重臣たちはついていけず、かえって藩の存亡を危惧したのです。特に附家老などは幕府の人間であるのも同然ですから、なんとかこの危険な藩主に態度を改めてもらうか、あるいは順良な人に藩主を代わってもらうかしなければならなかったのです。

そして附家老は後者を選びました。幕府と綿密な下準備をして、藩主を罷免させたのです。

吉宗の真の苦悩

時の幕府の老中首座は松平乗邑まつだいらのりさと。将軍吉宗の専制的な手腕を快しとせず、なんとか幕府としての威厳を保ち、幕閣としての手腕を発揮したいと思っていたに違いありません。

宗春への沙汰は、それぞれ主君から軽んじられた附家老と老中という似た者同士の思惑が一致した結果だと思うのです。もちろん沙汰は将軍によって下されたことになるのですが、それをもって吉宗が宗春をいまいましく思い続けていたと結論付けるのは性急過ぎます。

既述の通り吉宗は、蟄居後の宗春を何かと気遣っていますし、全くの外出禁止にされていたのではなく、尾張家の祈祷寺である興正寺や菩提寺の建中寺に度々参詣しています。吉宗は宗春が憎くて仕方なく、宗春の死後までもその墓に金網を張って厳重に包囲したなどとまことしやかに語り継がれていますが、そのような史実はやはりどこにも見つかりません。

吉宗がいくら側近政治を主体としようとしていたといえども、老中に論理立てて宗春謹慎の儀を建白されれば、それに従わざるを得なかったのではないでしょうか。宗春が御三家としては前代未聞の厳しい処分に課せられたのは、吉宗に歯向かったからということではなく、幕府老中と結託した尾張藩附家老による用意周到なクーデターだったと捉えるべきだと思うのです。

だから吉宗が許せなかったのは、宗春ではなく自分自身だったのかも知れません。将軍対老中、藩主対附家老という対立構造の中で、藩主ひとりを犠牲にしてしまったことを申し訳なく思い、それで謹慎した後までも宗春のことを気に病んだのではないでしょうか。

ちなみに宗春の男子は相次いで早世してしまったため宗春に後継ぎはなく、宗春隠居後の尾張藩は幕府預りとなりました。そして幕府は尾張徳川家御連枝四谷松平家の美濃高須藩主で宗春の従弟にあたる松平義淳まつだいらよしあつに藩領を下し、第八代徳川宗勝とくがわむねかつとなって尾張家と尾張藩を継承していくこととなりました。

この記事のまとめ

  • 徳川宗春は江戸時代中期の尾張藩第七代藩主であり、時の幕府第八代将軍徳川吉宗のあだ名を模して「尾張の暴れん坊将軍」と称される。
  • その暴れん坊ぶりを寸劇風にした必見のからくり人形が、名古屋の大須という所にある。
  • 宗春と吉宗がよく比較される理由は、幕府の政策方針と尾張藩のそれとが真っ向から対立したからだと従来されてきた。
  • しかしながら吉宗は宗春が藩主になる以前も以後も、そして蟄居した後も宗春のことを気に掛け労っていた。
  • 宗春にも吉宗を恨んでいた気配は見受けられず、宗春謹慎の一件は幕府と尾張藩それぞれの対立構造に起因するのではないか。
  • 吉宗の怒りの矛先は宗春ではなく、むしろ自分自身だったのではないかと思われる。

謹慎処分が下され、宗春は42歳で隠居の身となりました。宝歴元(1751)年に吉宗が薨去した後も幽閉の身は続き、処分が解かれることはありませんでした。

明和元年10月18日(西暦1764年11月1日)、宗春は67年の人生を終えます。四半世紀にもわたる謹慎生活が快適であろうはずはなかったでしょうが、大大名だった誇りを失わず、茶器を焼いたり絵を描いてみたりしながら、悠々とその長い歳月を過ごしたそうです。