明智光秀の家紋の由来!旗印に描かれた水色桔梗花の意味を探って謎多き人物像に迫る?!

戦国武将明智光秀あけちみつひでがにわかに脚光を浴びています。元々超有名人ではありましたが、大河ドラマで主役の座を射止めたことによって、その注目度にさらに拍車が掛かりました。

大河ドラマで取り上げられることによって、明智光秀にゆかりのある自治体では、それぞれの市や町や村興しに余念がありません。それはそれで、大変結構なことだと思います。

ただ、ドラマはあくまでドラマであり、脚色された部分が当然あるはずです。そして一年間もの長きにわたって明智光秀を主役に仕立てる場合、その脚色された部分は相当多いだろうと予想されます。

なぜならば明智光秀程謎に満ちた人物はいないからです。日本史のある時点において確実に時流を変えた超有名人であるにもかかわらず、信憑性の高い史料というものがあまり残されていないのです。

明智光秀のように一世を風靡ふうびする程の知名度がなくても、歴史に名を連ねる人にはその生涯においてそれなりに確かなバックグラウンドがあるものです。しかし明智光秀は、どこで生まれて何をしていたか、誰に仕えていたかがはっきりしないまま、ある時織田信長おだのぶながの最有力家臣として忽然と歴史の表舞台に姿を現します。

そして本能寺の変で主君信長に反旗を翻しついには天下人となるも、わずか数日後には羽柴秀吉はしばひでよしによって仇討ちされてしまいます。その最終期ですら、なぜ主君に逆らったのか、諸説様々あるものの、真相は全く分かっていません。

そこで本文では、明智光秀が旗印に用いた水色桔梗花の家紋に焦点を当てて、それを基軸にして明智光秀の人物像を探ってみたいと思います。その家紋の由来はどこか、由来の意味するところは何かを知ることから始めて、少しでも明智光秀の謎が解ければとの思いで、これより記事を書き進めていきます。

本能寺の変で有名な明智光秀

天下人になるのを目前にしながらも、宿所の本能寺を夜襲され自害に追いやられた織田信長。いわゆる天正10年6月2日(新暦1582年6月21日)の本能寺の変は、日本の歴史において、間違いなく大きな転換点となった出来事です。

その織田信長を奇襲したのが明智光秀。明智光秀はまさにこの一件によって後世までその名をとどろかせ続けることとなります。

明智光秀は非常に謎の多い武将であり、その経歴なども織田信長に仕える以前については正確な史料がほとんどありません。その名を有名にした本能寺の変ですら、なぜ主君を裏切る結果となったのか、本当の理由は一切分かっていません。

しかし襲撃の理由が分かろうが分かるまいが、織田信長の重臣であった明智光秀が主君にやいばを向けた謀叛むほん人であることは紛れもない事実です。明智光秀のあまり多くはない史実の中で、皮肉にも最も疑う余地のないエピソードなのです。

明智光秀の水色桔梗紋

信長は本能寺を取り囲む旗印が明智の者であるとの報告を受け、「是非ぜひおよばず」と呟いたとされています。騒然とした最中、誰がそんなことを聞いていたのかと突っ込みを入れたくなるところですが、実はこの逸話はかなり信憑性が高いのです。

それは現代風に言えば「仕方がない」という意味で、光秀ならば仕方がないと、信長が達観していたようにも聞こえますが、本当はそうではなく、あれこれ考えていても仕方ないから出来るだけのことをやれと、周りの者を逆に鼓舞した言葉と見るべきのようです。

さて明智光秀の家紋が桔梗であることはよく知られた話です。桔梗は五角形の花が可憐で特徴的な、秋の七草のひとつである野花です。

武将が桔梗を家紋に用いること自体は別段珍しいことでもありませんが、明智光秀の桔梗紋には艶やかな着色が施されていたのです。それは数ある家紋の中でも非常に珍しいものであり、本能寺を取り囲んでいた旗印に描かれた水色の桔梗紋を見た瞬間にそれが明智光秀の軍勢であることが容易に分かったということです。

この家紋をもってして、明智光秀の出自は土岐とき氏の庶流である明智氏であるという説が有力です。土岐氏とは、鎌倉時代以降美濃国を中心に栄えた清和源氏の血を引く名門の軍事貴族の系統であり、室町時代においては美濃国のみならず尾張、伊勢を合わせた三国の守護大名を務める程の勢力を有していましたが、やがて戦国の世となり、斉藤道三さいとうどうさんの下剋上によって没落してしまいました。

その美濃土岐氏の家紋がやはり桔梗であり、用いた旗印が「白地に水色桔梗紋」あるいは「水色生地に白抜き桔梗紋」であったという記録が残っているというのです。明智光秀の旗印に描かれていたものと一緒だったのです。

名門土岐氏の再興を夢見た?

このことを謎に満ちた明智光秀の人物像を固定するひとつの軸と考えれば、本能寺の変をはかった真意も垣間見えてくるかも知れません。明智光秀は由緒正しい土岐氏の再興と土岐氏の手による天下統一を目論んでいたのではないかという大胆な予想です。

大胆ではありますが、あながち嘘八百を並べ立てているだけでもありません。俗に本能寺の変後の三日天下みっかてんかと酷評されている明智光秀ですが、実際には12日であり、羽柴秀吉との山崎の戦いが始まった翌日、土民に襲撃されて落命したとされています。

いずれにせよ12日が短い期間であることは間違いないのですが、光秀がこの僅かな間にあらかじめ計画していたかのごとく事を進めていたことはあまり知られていません。本能寺の変から3日後には信長の居城であった安土城を乗っ取って、そこにあった信長貯蔵の金銀財宝を強奪して家臣や見方に分け与え、さらに4日後には宮中に参内して関係者に大量の銀をばらまき、朝廷工作に打って出ています。

この朝廷工作こそが、自分の出自を正当化し、かつ差別化したいという光秀の一番の野望を端的に表していると思うのです。もちろん他の武将との和睦も同時に進めたのでしょうが、ことごとく羽柴秀吉に先を越されてしまい、孤立してしまったということは、結局天下国家のことなど二の次で、我欲に走ってしまったと思われても仕方のないところではあるのかも知れません。

明智光秀など存在しない?!

以上は明智光秀の出自をひとつの説に絞って本能寺の変の動機を推察してみたに過ぎません。出自説ですら他に幾つもあるのです。

それどころか本当は、本能寺の変の首謀者は明智光秀ではなかったのかも知れません。それはやや極端な表現で、最終責任者は明智光秀だったけれども、実行したのは明智光秀自身ではなかったという意味です。

なぜならばそもそも、本能寺の変のあった時点で明智光秀は存在しなかったのです。本能寺の変の約7年も前に、朝廷より惟任これとうを賜姓され、従五位下じゅごいのげ日向守ひゅうがのかみに任官されているのです。

よって天正2(1575)年7月以降明智光秀は、惟任光秀となったのです。戦国武将にとって改姓は立身出世の証であり、ましてや朝廷から賜った姓を使わずに、なぜわざわざ旧姓に戻す必要がありましょうか。

そんな必要があるわけはないのです。この日以降は主君の織田信長ですら、この家臣のことを惟任日向守と呼んでいたはずです。

そこで信長が、本能寺を取り囲む旗印が明智の者であるとの報告を受けて是非に及ばずと呟いたというくだりを、今一度思い出して頂きたいと思います。ここでは「是非に及ばず」ではなく、「明智の者」というところに注目致します。

このように信長に報告したのは実は小姓の森蘭丸もりらんまるであり、日頃より信長のすぐ側で仕える森蘭丸が、惟任の名をこの期に及んで言い間違えるはずがありません。そう、確かに森蘭丸は「明智」とも「日向守」とも「光秀」とも言っているわけではないので、決して何か言い間違いをしたのではないのです。

明智光秀はその名が馳せる頃には自らもすでに強力な家臣団を抱えていて、彼等にも積極的に明智の姓を名乗らせました。いわゆる明智勢という集団です。

よってこの時森蘭丸の発した「明智の者」という言葉は、明智勢のことを指しているのではないかとも言われているのです。明智勢は必ずしも明智姓ばかりではありませんが、要するに「明智の手の者」と解釈すればより分かり易いかと思います。

この記事のまとめ

  • 明智光秀の家紋は桔梗の花であり、旗印は白地に水色桔梗紋或いは水色生地に白抜き桔梗紋であった。
  • 桔梗の家紋は、光秀の出自が美濃土岐氏の庶流である明智氏であることに由来するという説が有力である。
  • 土岐氏の庶流だとすれば、それには非常に大きな意味がある。
  • その説に沿えば、明智光秀の謀叛の理由は名門土岐氏の再興と土岐氏による天下の支配を企てていたと言えなくもない。
  • しかし明智光秀が本能寺の変の実行者であったとは、必ずしも言えない部分すらある。

明智の手の者が本能寺の変の実行犯だとしても、その大将である惟任日向守が罪から逃れられるはずもありません。しかしこの時点において明智光秀という名の人物は存在しないのに、当然のように明智光秀が本能寺の変を起こした張本人といつまでも言われていることに違和感を覚えるのです。

それを気に掛ける人というのはなかなか少ないかも知れません。気に掛けたところでそれが何だということになろうかと思いますが、結局のところ明智光秀という人物は、大河ドラマのように清々しいものではなく、生まれてから没するまで、何から何まで謎だらけで得体知れずの男だということです。