渋沢栄一なぜ一万円札紙幣画像に?子孫にも有名人がいる大河の主役は凄い人!

日本の紙幣が間もなく20年振りに刷新されます。一万円札に至ってはその肖像画像がそのまま福沢諭吉ふくざわゆきちで引き継がれましたから、何と40年振りの役者の交代となります。

この度その最高金額券に登場する花形スターは、幕末から明治にかけて活躍し、昭和初期まで生きた渋沢栄一しぶさわえいいち、その人です。でもなぜ渋沢栄一の画像が紙幣に使われることになったのでしょうか。

それはもちろん渋沢栄一に一世を風靡した経歴があるからですが、その人生は穏やかな外見からは容易に窺い知れないくらい情熱的で波瀾万丈のものでした。令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天をけ」はこの渋沢栄一を主役にした話です。

この大河ドラマの主人公は今はもう過去の人ですが、その血を受け継ぐ子孫が今でも多方面で活躍しています。現在にまで影響力を及ぼす渋沢栄一とは、一体どんな人でしょう。

渋沢栄一という人

渋沢栄一は天保11(1840)年2月13日生まれで、武蔵国榛沢郡血洗島ちあらいじま(現埼玉県深谷市血洗島)の藍玉生産販売農家の長男として育ちました。藍玉作りには藍葉の仕入れが不可欠であり、普通の農家と違って今で言うところのコスト管理が求められるため、幼い頃より父親に付随して厳格な商業感覚を磨き上げていきました。

一方で藍玉以外にも養蚕業を営んだり、一般的な米や麦や野菜の生産も手掛ける豪農であったため金銭的には余裕があり、父親が文武の修得に理解があったこともあって、子供の時分より学問や剣術に熱心に取り組んできました。

渋沢栄一の前半生

文久元(1861)年には既に嫁を貰っていましたが、向学心のためどうしても江戸を見ておきたくなり、父親の許しを得て江戸遊学します。その時通っていた道場仲間の過激な尊皇攘夷思想に、次第に感化されていきます。

帰郷後の文久3(1883)年には従兄弟を含めた同士らと画策し、高崎城を急襲して武器を奪い、横浜を焼き討ちした後長州志士と手を組んで幕府を倒すという過激な行動を起こすつもりでしたが、寸前のところで実行に移すことを止めました。それでも倒幕計画の発覚を恐れた渋沢栄一は、親族に迷惑が及ぶのを避けるため、父親に勘当された体を取って勤皇志士のはびこる京都に従兄の渋沢喜作しぶさわきさくとともに逃れます。

しかしながらやっとの思いで辿り着いた京の都は「八月十八日の政変」直後で、勤皇派の立場は一変して不利となり、栄一もさすがに行き場もなく身の危険を覚えました。そこで栄一は思案の末、かつて江戸遊学の折りに一橋家家臣の平岡円四郎ひらおかえんしろうが自分に目をかけてくれたことがあったのを思い出し、京都護衛の朝廷からの任を得て上洛していた一橋家当主徳川慶喜とくがわよしのぶに随行していた平岡円四郎を頼って、一転して倒幕派から佐幕派へと身を転じたのです。

さて余談ながら、尊皇攘夷とひと言で片付けられがちですが、そもそも尊皇攘夷は別物です。尊皇とは別の観点で佐幕、即ち幕府をたすけるという言葉があり、佐幕に対して倒幕があり、攘夷即ち夷敵(外国人)を打ち払うという言葉に対して開国という言葉が存在するのです。

つまり尊皇であっても攘夷ではなく開国思想ということもあり得ますし、佐幕であるからといって開国とは限らず攘夷思想かも知れません。また尊皇であると同時に佐幕的考えがあっても何の不思議もありませんので、尊王イコール倒幕ではありません。

時の第121代孝明天皇は実際に佐幕派でしたが、あまりにも凝り固まった攘夷思想の持ち主であったため、尊皇イコール攘夷と考えられがちですが、実は全然違うのです。徳川慶喜はもちろん幕府側の人間でしたが、勤皇思想を有しておりましたから、尊皇佐幕であったわけです。

とは言えこれ以上の鎖国はもたない世情もよく理解していましたので、尊皇攘夷ではなく、尊皇開国ということになります。結局渋沢栄一にしたところでも、攘夷だ倒幕だ云々よりも当時の体制に変革を加えたかったのが第一であったわけですから、神君家康公しんくんいえやすこう以来の英邁えいまいの聞こえが高い慶喜ならば、この閉塞感に満ちた世の中を変えてくれるかも知れないと期待が持てたのであって、この転身を必ずしも変わり身の速さという批判じみた言い方で終わらせてしまうのは適切でない気がします。

ともあれ、こうして仕えた主君がやがて江戸幕府第15代将軍となり、ふたりの渋沢は幕臣となるのです。特に栄一の方はその非凡さを見抜いた平岡円四郎の取りなしもあって、主君と直接関わる機会もある程で、幕臣どころか将軍直々の臣下のようなものでした。

慶応3(1867)年にフランスのパリで万国博覧会が開催され我が国にも声が掛かり、将軍の名代として慶喜の異母弟であり、清水家8代当主で後の水戸家11代当主となる徳川昭武とくがわあきたけが出席することになりました。その随員のひとりとして、渋沢栄一は今で言うところの経理部長のような肩書きを貰って抜擢され、1年半余の間フランスをはじめ、ヨーロッパ各国を昭武に随行して視察して回る機会を得ました。

昭武一行は本当はもっと長期間ヨーロッパに滞在するつもりでしたが、その時日本では大政奉還という思いもしない事態が起きて資金供給者であった江戸幕府という後ろ楯も崩壊してしまって、結局新政府から帰国命令が出たため、それを受け入れざるを得ませんでした。しかしこの洋行経験は、その後の渋沢栄一の実業家として歩む人生に大いに役立ったことは間違いありません。

帰国した渋沢栄一は、故郷に落ち着くことを選ばずに、かつての主君徳川慶喜が謹慎生活を送っていた静岡藩に赴いて、静岡の繁栄のためにこの地に留まり、ヨーロッパでの見聞を活かして明治2(1869)年1月、この地に商法会所を設立しました。一地方農民から将軍臣下へと身を立てた渋沢栄一は、幕府瓦解後も旧主君への恩義を決して忘れない、武士の鏡でした。

この辺りまでが渋沢栄一の前半生と言えるでしょうか。「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一の、後半生の輝かしい功績の数々は広く世間の知るところですが、過激で変化に富んだ前半生についてはそれほどでもないみたいです。

渋沢栄一の後半生

さて、元主君のいる静岡で民間人として骨を埋めるつもりでいた渋沢栄一でしたが、それまでの実績が新政府の大隈重信おおくましげのぶの知るところとなり、栄一のもとには新政府より出仕命令が届きます。強引といえば強引ですが、官軍側賊軍側のこだわりなく広く有能な人材を明治政府が求めたことは、高く評価していいと思います。

栄一は初めは宮仕えを頑なに拒むものの、新国家創設のための八百万神やおろずのかみのひとりになってくれと説得され、官僚になることを受諾し、明治2(1869)年10月に大蔵省に入省します。

それから4年前後の間、主に新国家の経済的自立のために公僕として身を捧げましたが、予算編成を巡って大隈重信や大久保利通おおくぼとしみちと意見対立し、明治6(1873)年10月には辞表を提出して退官してしまいます。そこから「日本資本主義の父」と呼ばれるに相応しい活動が始まるのです。

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた我が国最初の銀行組織である「第一国立銀行」(後第一銀行、第一勧業銀行となり、現みずほ銀行)の頭取に就任したのを皮切りに、以降現存する多種多様の大企業の設立に関与し、民業の促進に多大なる貢献を施したのです。

また教育活動にも熱心で、森有礼もりありのりの商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎おおくらきはちろうの大倉商業学校(現東京経済大学)等の実業教育の学校の設立にも協力してしていますし、高千穂学校(現高千穂大学)の評議員、二松学舎(現二松学舎大学)の舎長に就任したりもしています。晩年は経済を回すことだけでなく、回ったカネを世の中に還元すること、即ち慈善事業や社会福祉活動にも大変熱心でした。

渋沢栄一が主人公の大河ドラマ

こうした容易には語り尽くせない渋沢栄一の人生を主題にしたテレビドラマが令和3(2021)年のNHK大河ドラマで始まります。タイトルは「青天を衝け」で、主役の渋沢栄一を演じるのは若きイケメン俳優、吉沢亮よしざわりょう

これは大森美香おおもりみかの脚本によるオリジナルストーリーですが、一度よく渋沢栄一について本を読んで知っておきたいという人には、城山三郎しろやまさぶろうの小説「雄気堂々」が読み易くて面白いと思いますのでおすすめです。上巻と下巻に分かれます。

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大河ドラマ放映の3年後には、いよいよ新札も発行されます。渋沢栄一の数々の功績の中に、その年「一万円札の顔」という名誉な呼び名が新たに加わることは間違いないでしょう。

紙幣が25年振りに刷新

新しい日本銀行券、いわゆる日本の紙幣が令和6(2024)年上半期に発行されます。千円札の肖像画像が野口英世のぐちひでよから北里柴三郎きたざとしばさぶろうに、五千円札が樋口一葉ひぐちいちようから津田梅子つだうめこに、そして一万円札が福沢諭吉からこの渋沢栄一に変わります。

引用元 :
財務省ホームページ(https://www.mof.go.jp/currency/bill/20190409.html)

紙幣自体は20年振りの刷新となりますが、一万円札に至っては福沢諭吉が2回連続採用されていますから、肖像画像としては昭和59(1994)年以来の変更で実に40年振りとなります。

現行紙幣と新紙幣の共通点を探る

北里柴三郎は日本の細菌学の父と称される医学者、津田梅子は日本における女子教育の先駆者と称される教育者です。現行の千円札の野口英世も医学者ですし、五千円札の方は文学者の樋口一葉で、教育者ではありませんが女性ということで共通点があります。

余談となりますが女性の肖像画といえば、紙幣の印刷技術が数段進歩した昨今の賜物の感があります。実際これまでの紙幣の歩みを見てみると、偽札の防止対策からも細かい線を多用する髭面の男性像が多数採用されてきました。

だから樋口一葉が女性として初めて紙幣の肖像画に登場したかのように思われますが、実はそうではなく樋口一葉は2番目、そして津田梅子は3番目です。

紙幣初の女性肖像画は第14代仲哀ちゅうあい天皇妃で、古事記や日本書紀に登場する、一説では伝説のあの卑弥呼ひみこではないかとも言われている神功じんぐう皇后です。明治14(1881)年の明治政府一円紙幣に登場し、実はこれが日本初の紙幣と言えるものでしたから、女性初の肖像画というよりも日本初の肖像画が女性だったということで、その後登場した五円紙幣や十円紙幣にも使われています。

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やや話が横道にそれてしまいましたが、それでは福沢諭吉から渋沢栄一へと引き継ぐ流れの中にはどんな共通点が見つけられるでしょうか。それは両者とも江戸幕府最終盤の幕臣だったことです。

福沢諭吉は中津藩(現大分県)出身の下級武士でしたが、オランダ語や英語に精通していたことで才覚を現し、幕府に雇われることとなります。一方渋沢栄一の方は武蔵国の農民の出で、初めは過激な倒幕思想の持ち主でしたがやがて徳川一橋家家臣の平岡円四郎の目にとまり、やがて江戸幕府最後の将軍となる一橋慶喜に直々に仕えることとなります。

幕臣といえども福沢諭吉は元々は地方の下級武士、渋沢栄一に至っては豪農とはいえ所詮農民であり、武士ですらありませんでした。両者とも生まれた時がもう少し早ければ、福沢諭吉は一生涯地方の下級武士のまま、渋沢栄一もやはり一生涯農民のままであり、各々その名を広く後世に知らしめることなどなかったことでしょう。

名実ともに日本経済の顔となる

さてその渋沢栄一ですが、実は既にその肖像画が紙幣として使われたことがあります。明治35(1902)年のことですが、それは我が日本国の話ではなく、当時大韓帝国だった隣国での話です。

それは実際には紙幣ではなく、渋沢栄一が頭取を務めていた第一銀行の朝鮮支店が発行した、いわば私的な「無記名式一覧払い約束手形」というものでしたが、当時のこの国の不安定な政情が背景にあって、実質信用のおける紙幣として流通したのです。

福沢諭吉も2度続けて紙幣の肖像画になっていますし、その点も両者の共通点と言えるかも知れません。渋沢栄一は日本初の銀行というものの頭取だった人ですが、それだけでなく今でも現存する数々の大企業の創設に関与していて、いわば近代日本における資本主義経済活動の生みの親であり、なぜ新一万円札の肖像画像に選ばれたのかはこの辺りが理由なのでしょうが、この度名実ともに日本紙幣の顔となることは至極妥当だと思いますし、むしろ遅すぎた感すらあるのではないでしょうか。

偉人の家系を引き継ぐ人達

渋沢栄一は安政5(1858)年に結婚し3人の子供に恵まれますが、その夫人を明治15(1882)年に亡くします。その後迎えた後妻との間には子供が4人できます。

更には、この頃の英雄には有りがちな話ですが、渋沢栄一は若い頃より妾宅通いが盛んであったため、嫡子の他にも大勢の庶子がいて、結局実子の数は20人程度だったそうです。このように元々子供が多かったのだから、サラブレッドの血を引く割合も多くなるのかも知れませんが、しかし嫡出の家系を追っていくだけでも優秀な人ばかりなのです。

その人達は実業家であったり官僚であったり、学者であったり芸術家であったりと、その道を極めている人ばかりなのですが、皆が皆いわゆるメディアを賑わす有名人というわけではありませんので、ここではその名を詳細に列記しません。因みに近頃話題の女子プロゴルファー渋野日向子しぶのひなこが、渋沢栄一の縁戚者だと噂された時もあってその辺が有名といえば有名ですが、あればデマです。

実際は渋野日向子ではなく、これもまた今頭角を現しつつある澁澤莉絵留しぶさわりえるという新人ゴルファーのことです。父方の遠い親戚が渋沢栄一に辿り着くそうです。

この記事のまとめ

  • 令和6(2024)年に日本の紙幣が20年振りに刷新される予定で、一万円の肖像画像は渋沢栄一となる。
  • 渋沢栄一の前半生は農民から武士、勤王志士から幕臣へと目まぐるしく転身して駆け抜けた。
  • その後半生は初め明治政府の官僚であったが、やがて退官した後は民業進展に全力を注いだ。
  • そんな波瀾万丈の彼を主役としたNHK大河ドラマが、令和3(2021)年に放送される。
  • なぜ紙幣の肖像画像に選ばれたかの理由については、「日本資本主義の父」と称された後半生の数々の功績による。
  • 渋沢栄一はたくさんの有能な子孫を残し、現在でも一線で活動している人もいる。

明治維新後新政府に登用された人は、自分の出自について誇張したり脚色したりすることが殆どだったそうですが、渋沢栄一だけはいつでも自分から一介の農民の倅であることを語って憚らなかったといいます。動乱の時代の渦中を常に全力で走り過ごしたこの小柄ながらも偉大な人物は、91年の長寿を全うし、昭和6(1931)年11月11日に大往生しました。