名古屋の大須観音は凄い寺!参詣の証として時間注意で御朱印を頂こう!

名古屋の大須観音の本堂は、大火によって2度消失し、現在のものは昭和45(1970)年に建て直されたものである。

名古屋に大須という所があります。大須の名は今や全国的にも知れ渡っていて、大須の象徴である商店街には連日、日本国内のみならず、海外からの観光客も大勢詰めかけます。

そんな大須に、大須観音の名で親しまれている寺があります。商店街の西端にあって、とても庶民的な雰囲気です。

ところがこの大須観音は、実はかなりの由緒を持つ立派な寺なのです。だから大須観音に行って手を合わせたら、参拝の証として御朱印を頂いてくることをお薦めします。

御朱印の受付時間は午後5時までですが、あまりギリギリには行かないで下さいね。大須観音の参詣には、少しだけ時間のことを気にして下さい。

それでは、ご案内致します。

名古屋の大須観音

大須は活気のある町です。時代の波に押し流されて、日本全国津々浦々の商店街が廃れていく中で、この大須の商店街は、今でも毎日老若男女で溢れかえっています。

大須の商店街には、個別に9つの通りの商店街があります。それらを総称して、大須商店街と言っています。

大須観音はそんな大須商店街の西の外れ、即ち大須観音通商店街と大須仁王門通商店街というアーケード街の西側出入口すぐの所にあります。

本堂に向かって右に行った所に、大須商店街のひとつである大須観音通商店街がある。連日国籍不問の老若男女で賑わう。

大須仁王門通商店街は、大須観音通商店街の一筋南側にある。どちらもアーケード街である。

大須商店街には平日でも一日3万人、休日ともなれば7~8万人の来訪者で賑わうそうですが、その影響も当然あって、大須観音には常に人の姿が絶えません。

その大須観音は、東京の浅草観音、三重の津観音と並んで、日本三大観音のひとつとされています。

だから、大須商店街からの人の流れもさることながら、日本における主要な観音霊場のひとつとして、人を呼び寄せているのです。

大須観音は凄い寺

大須観音はこの寺の名称のようになっていますが、それはあくまで通称です。この寺を大須観音と呼んでいるのは、大須の観音様のいる所といったくらいの意味合いからです。

ですからそれは、寺の本当の名前ではありません。正式名を北野山真福寺宝生院きたのさんしんぷくじほうしょういんと称します。真言宗智山派に属し、寺格は別格本山です。

大須観音の寺院としての正式名称は「北野山真福寺宝生院」であり、真言宗智山派別格本山である。

いわば大須観音の本名である真福寺宝生院は、元々は尾張国長岡庄、つまり現在でいう岐阜県羽島市にありました。元亨4(1324)年に後醍醐天皇がこの地に北野天満宮を創建しますが、真福寺はその北野天満宮の別当寺べっとうじとして、大須と呼ばれたこの地域に、元弘3(1333)年に開山されました。

別当寺とは神社を管理するために置かれた寺のことで、そうしたものは他にも神宮寺、神護寺、宮寺などがありますが、別当寺が一番格上です。

次の後村上天皇は、その真福寺に主要な建物を創建し、真福寺を勅願寺ちょくがんじ、つまり天皇が国家の平安や皇室繁栄などを祈願するための寺院にしました。この時、現大阪市天王寺区の四天王寺から観世音菩薩を移してきて、それを本尊としたのです。

時は下り慶長17(1612)年、それまで清須にあったこの地方の中心的役割を、徳川家康はいわゆる「清須越し」によって名古屋に移しました。それに伴い真福寺も、家康の命によって現在ある場所に移転しました。

家康はこの勅願寺の崇高さをよく理解していたので、真っ先に真福寺の清須越しを行ったわけです。しかもその時、移転元の所在地であった大須という地名までもそのまま名古屋に持ってきてしまったのです。

それが現在の大須観音なのです。

今は単に商店街の片隅にあって、人の流れの多い寺くらいの感覚しかないかも知れませんが、元を辿れば凄い所だということがお分かり頂けたかと思います。

大須観音の御朱印と受付時間

大須観音の正式名称は、真福寺宝生院です。そもそも院号の使用を許されるのは、皇室と関わりのある寺だけです。

そんな由緒正しい大須観音へ参詣し、日本三大観音のひとつである大須観音の本尊、聖観音に参拝したら、その証として御朱印を頂いておきましょう。

御朱印を頂くには本堂建物1階の寺務所へ行かなければなりませんが、そこへの行き方は少しだけ複雑です。

もちろん道標みたいなものが貼ってありますので、迷うことは余程ないとは思いますが、表から全体を眺めているだけでは絶対に見えない所にあります。

寺務所へ行くには、一旦本堂建物の階段を上って2階の本堂へ行きます。その右端にあるくぐり・・・のような所を抜けて本堂建物の裏側に回ります。

本堂の階段を上って2階部分に行くと、右手の柱に「朱印所→」と書かれた紙が貼ってあり、矢印の方向にはくぐりのような通路がある。

くぐりのような所を抜けた先にある階段を下ると、左手に出入口があります。その中に入ると、靴を脱がなければなりませんが、そのすぐ先の左側が寺務所です。

くぐりのような通路を抜けると本堂の裏手に出て、そこに階段がある。その階段を下って1階に降りると、左手に寺務所の看板が見える。

人のよく集まる寺だからでしょうか、寺務所には僧侶や寺務員が常時2~3人は詰めていますので、そこへ行っても誰もいなくて慌てるなんてことはありません。

窓口で御朱印帳を差し出せば、これぞ御朱印と言える程の見事な筆運びで有難い御朱印を書いてくれます。

大須観音の本尊は聖観音である。御朱印の中央には、梵字の下に「大悲殿」と書かれている。大悲殿とは大須観音の本堂のことであり、本尊が奉られている所である。

書いてもらった後に300円払います。なるべくお釣りのないよう、小銭を準備しておきましょう。

ただし注意すべきは、受付時間は午前9時から午後5時までですが、午後5時になる少し前にはもう、寺務所へ行く通路をふさいでしまうことです。

本堂右側のくぐりの所に鎖綱を張ってしまいますので、ギリギリの時間に駆け込んで無理を言って通すなどということは一切できません。ですから時間には十分留意して参拝して下さい。

徳川宗春と大須とからくり時計

それから大須観音境内境の東側には、巨大なからくり時計が設置されていて、これもなかなか見応えのあるものです。

からくりの中身は徳川宗春です。宗春は尾張徳川家七代目当主で、尾張藩の繁栄を導いた名君であり、尾張藩中興の祖と言われる人です。

大須は宗春の施した積極的な芸能振興策によって、大いに発展することができました。宗春はかぶき者で知られ、派手な姿をして民衆の前に現れました。

その宗春が煙管キセルをくわえながら白牛にまたがって、大須辺りを練り歩いたとされる場面を再現したのが、このからくり時計です。

大須観音境内横にある巨大なからくり時計は、決められた時刻になると幕が開き、尾張の名君と言われた徳川宗春が現れる。

なお、からくり時計のショータイムは、次の時刻からの約6分間です。

  • 11:00
  • 13:00
  • 15:00
  • 17:00
  • 18:30

ここのからくり時計の仕掛けは本当に大掛かりで、とても迫力があります。大須観音まで足を延ばして、これを見ないで帰ってしまうのはちょっともったいないですよ。

まとめ

  • 名古屋の大須観音は、日本三大観音のひとつである。
  • 元々は、後醍醐天皇の創建した北野天満宮を管理する(一番格上である)別当寺であり、後には天皇が国家の平安や皇室繁栄などを祈願するための寺院(勅願寺)になったほど凄いお寺である。
  • 大須観音の御朱印は、由緒正しい寺院を参詣した証になる。
  • 御朱印受付の寺務所へは午後5時前には近づけなくなるので、参詣時間には留意しなければならない。
  • 境内横のからくり時計も見応え十分である。

大須観音の境内へは、夜明け前であろうが日没後であろうが、いつでも何の制限もなく入れます。しかしせっかく由緒正しい立派な寺院を訪れるのであれば、是非御朱印を頂いておいて欲しいものです。そのためには参詣はあまり遅い時間にならないようにして下さい。

それから時間に気を付けなければならないのは、御朱印を頂くことだけではありません。からくり時計についても同じです。からくり時計のからくりは、いつも動いているわけではありません。

からくりの上演時間をのがしてしまうと、からくり時計に近づいても幕が閉まっていますから、蔵を小さくしたような、ただの箱を見ているだけということになりかねませんよ。