攘夷思想の吹き荒れた幕末の騒動を語る際に、孝明天皇の存在を忘れることはできません。孝明天皇は大の異人嫌いで有名で、尊皇の志士たちに攘夷を焚き付けた張本人のようにも思われがちです。
確かに孝明天皇は237年の沈黙を破って御所の外に飛び出し、攘夷祈願のため京都賀茂神社に行幸しました。尊皇の志士たちはそうした孝明天皇の気持ちに応えたまでと言えなくもありません。
しかし本来、尊皇と攘夷とは全く別の主義主張であり、尊皇イコール討幕でもなければ攘夷イコール討幕でもなく、尊皇開国という考え方もあれば佐幕攘夷という考え方もありますし、尊皇であると同時に佐幕であっても何もおかしいことではないのです。結局のところ尊皇を声高に叫んだ志士たちは、討幕のために攘夷ひいては孝明天皇を利用したまでと言っても過言ではありません。
こうした過激な行動をする志士たちは、むしろ不逞の輩として孝明天皇からは疎外されました。孝明天皇は間違いなく攘夷派ではあったものの、決して討幕派ではなかったのです。
たとえば京都守護職だった松平容保に宛てた天皇の信書である宸翰。それが何のためだったかを考えれば、孝明天皇の大御心は明白なはずです。
激動する時代の流れの中、天皇という立場にある責任感から、国家の安寧を誰よりも願い続けた孝明天皇。長い太平の眠りから突然目覚めたこの幕末に勇猛果敢に国家の舵取りをしようとした孝明天皇の、幕末とともに終えた激動の生涯を追います。
目次
孝明天皇以前
孝明天皇を語るには、時代を少し遡って、二代前の光格天皇から説明する必要があろうかと思います。在位期間安永8年11月25日(西暦1771年9月23日)~文化14年3月22日(西暦1817年5月7日)の第119代天皇は孝明天皇の祖父になりますが、実はこの光格天皇の時にそれまでの皇統が少し変わります。
光格天皇の先代である後桃園天皇には皇女はいたものの、跡継ぎとなる皇子がいないまま満21歳の若さで崩御してしまいました。そこで南北朝以降確立された世襲親王家から新帝を迎えることになりました。
世襲親王家とは、江戸幕府における徳川家の御三家や御三卿のようなものと言えば分かりやすいかと思います。要するに極めて俗的な表現をすれば、直系が途絶えた時の血のスペアなのですが、御三家は一国を統治する藩主という特殊な存在でもありましたから、むしろ御三卿の方がより近いかも知れません。
新たな皇統の祖となった光格天皇
その世襲親王家から3人の親王が候補に挙がりましたが、後桃園天皇と一番血筋が近かったことや、当時1歳だった後桃園天皇の皇女を妃にするという構想もあって、閑院宮家から典仁親王の第六王子で9歳の祐宮に白羽の矢が立ったのです。閑院宮は宝永7(1710)年に創設が決定され、後桃園天皇より五代前、第113代東山天皇の第六皇子が初代となり、第二次世界大戦後の昭和まで七代続きましたが、占領下のGHQの措置により皇籍離脱させられ消滅しました。
一方で閑院宮家から養子に出て、いわば天皇家の宗家となった光格天皇の血筋は、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、上皇陛下、そして今上陛下へと脈々と受け継がれています。幕末に践祚した明治天皇については諸説あるものの、若い時の御真影は孝明天皇とそっくりな程よく似てるので、親子関係に疑う余地はないでしょう。
ちなみに上皇陛下が平成31(2019)年4月30日をもって天皇の地位を退かれた時、202年振りの譲位ということで話題になりました。その上皇陛下の前に譲位を行った天皇こそが、この光格天皇です。
朝廷と幕府との力関係
ところで江戸幕府は開幕初期より禁中並公家諸法度を制定して、朝廷の行動を抑制し続けていましたが、この頃よりその完璧なまでの抑止力に陰りがさしてきます。そこには2つの事件が関係しています。
まずは天皇になったことのない実父の閑院宮典仁親王に、光格天皇が太上天皇号を贈ろうとしたこと。自分が天皇になったことで実父よりも格上になり、実父を陪臣の如く扱わなければならないことに不満を抱いたためでしたが、幕府としては朝廷の意のままにさせておくことはその威厳に関わることであり、容認することはできません。
朱子学の封建的な「忠」を重んじる幕府と陽明学の道徳的な「孝」を重要視する朝廷との対立でもあり、一触即発の事態にまで進展したものの、最終的には皇号を認めない代わりに、典仁親王の待遇を改善するという形で収束されました。しかし「尊号一件」の名で知られるこの事件によって、陽明学をさらに発展させたような尊皇思想が公然と広まるきっかけを作ってしまいました。
またこの頃には既に幕府の鎖国政策にもほころびが見え始めていて、特にロシアとは千島列島地域において領土や通商問題でしばしば小競り合いを起こしていましたが、文化8(1811)年にはついに千島列島を測量していたロシア軍艦ディアナ号の艦長や乗組員を国後島で捕縛するという事件が発生しました。それがもうひとつの出来事であり、艦長の名を取ったこの「ゴローニン事件」は、捕縛者を2年3ヵ月の間抑留していましたが、光格天皇はその間の事件解決のための交渉経過を報告させて幕府に干渉しました。
幕府の抑圧に対する朝廷の抵抗
長い間江戸幕府に骨抜き同然の状態にされていた朝廷でしたが、ここに至って朝廷権威の回復気運が高まり出したのです。文化14(1817)年に即位した次の仁孝天皇も、譲位した父帝の意を受けて朝儀復興に努めました。
特に公家のための教育機関の設置に注力し、崩御翌年の弘化4(1847)年にその遺志が実現されました。京都御所建春門外に造られたこの学舎は2年後の嘉永2(1849)年、次帝が下賜した勅額から、学習院と公称されるようになりました。
そしてその次帝とは、この記事の主人公である孝明天皇のことです。孝明天皇は祖父の光格天皇が目論んだ朝廷復興の意志を継承し、時代の背景事情も相まってそれをより強化したわけです。
孝明天皇誕生
孝明天皇は天保2年6月14日(西暦1831年7月22日)に第120第仁孝天皇の第四皇子として生を受け、父帝の崩御にともない弘化3年2月13日(西暦1846年3月10日)に践祚、満14歳で第121代天皇となります。称号(幼名)は煕宮、諱を統仁といいます。
次帝は孝明天皇第二皇子の明治天皇ですが、慶応4年9月8日(西暦1868年10月23日)に一世一元の詔が発せられたことにより、明治以降現在に至るまで、天皇一代につき元号ひとつとなりました。孝明天皇はこの一世一元の詔が発せられる前の、最後の天皇になります。
その孝明天皇はおおよそ21年にわたる在位期間中、嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と6回も改元を行い、弘化を含めて7つの元号の世を駆け抜けました。もっとも室町時代中期の後花園天皇のように、在位約36年の間に8回も改元した例も中にはありますので、孝明天皇の場合が際立って多いわけではありませんが、改元がおめでたい時とその真逆に社会不安が発生した時にも行われたことを考えれば、幕末がいかに政情的に不安定だったかを如実に物語っていると言えます。
尊皇攘夷に火を着けた孝明天皇
践祚してわずか6ヶ月後、若年の帝は幕府に海防と対外情勢についての報告を命じ、早速リーダーシップを発揮します。新たな皇統となった光格天皇の意図した新たな朝廷権威は、子の仁孝天皇によっても引き続き示され、孫の孝明天皇に至っていよいよ固持されるようになったのですが、それには孝明天皇が丸々在位した幕末という混沌とした時代が強く影響しているからでもあります。
本来江戸幕府は国家運営にあたって、あらかじめ朝廷に相談したり許可を求めたりする必要はなく、幕府の決定事項に対して朝廷が形式的に追認しているだけでした。しかし異人が頻繁に海防を脅かすようになると、前代未聞の事態に幕府は狼狽し、従来の枠組みを越えて広く世間に意見を求め出します。
そのような情勢下で践祚即位して幕末を迎えた孝明天皇は、在位期間中一貫して国家の有事に主体的に行動しました。老中首座の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許の奏請のために上京した際にそれを拒絶した話はあまりにも有名です。
結果としては勅許もなく条約が締結されることとなり、孝明天皇は激怒します。またこれによって尊皇攘夷思想に火がつき、討幕という考えに結び付いていくことになります。
慣例を反故にした孝明天皇
しかし幕府の重鎮を手土産ひとつなしで京から追い出した周知の話よりも、孝明天皇の偉業としてより注目すべきことがあります。
それは何と言っても文久3(1863)年3月3日に京都の賀茂神社[賀茂御祖(下鴨)神社と賀茂別雷(上賀茂)神社]へ行幸したことではないでしょうか。再度述べますが江戸幕府は開幕当初より朝廷を管理下に置き、厳しく統制していました。
それは天皇の行動にまで及び、江戸時代初期の第108代後水尾天皇を最後に御所の外に出ることすらできない状況になりました。天皇が御所から外に出たのは、実に237年ぶりという出来事であり、長年に及ぶ幕府の抑圧からついに解放された幕末後半のこの行幸こそが、孝明天皇最大の偉業だと思うのです。
孝明天皇と江戸幕府
ところで幕末という言葉について、これはもちろんある時代のある期間を表すものなのですが、ではより具体的にはいつからいつまでのことなのでしょうか。幕末の幕は幕府の幕ですから、鎌倉幕府があった鎌倉時代の末期を幕末と言うこともできるでしょうし、室町幕府が終焉を迎える頃だって幕末だと言えなくもないはずです。
ですから本来は必ずしも江戸時代最終盤のみが幕末と定義付けられているのではありませんが、一般的には幕府の幕は江戸幕府の幕を指し、より具体的には黒船来航の嘉永6(1853)年から戊辰戦争勃発の慶応4(1868)年までとされています。ペリー提督率いるアメリカ連合艦隊が浦賀沖にやって来たことによって世界情勢を目の当たりにさせられ、鎖国によって維持されてきた我が国の社会秩序が、堰を切るかのごとく崩壊していったのが幕末です。
そんな混沌とした時代を通して在位したのが孝明天皇であり、天皇であるが故に国の行く末を誰よりも案じたのです。皇祖以来守り続けてきたこの国が、異人に蹂躙されることを許すわけにはいかなかったのです。
佐幕攘夷の孝明天皇
孝明天皇が極端な異人嫌いと言われたのはこうした理由があったからこそですが、それでも開国に向けて舵を切った幕府と対峙していたわけではありませんし、自身も最終的には開国もやむ無しという考えに向いていきました。
そもそも光格天皇にしても仁孝天皇にしても、幕府との関係は極めて良好だったのです。そしてこの孝明天皇にしても、度々幕府と衝突していたかに見えますが、だからと言って敵対していたわけでは決してありません。
国家の情勢を憂えてはいましたが、自らが主導権を握って政務を司ろうなどとは全く考えておらず、あくまでも幕府に夷敵の脅威への対策をしっかりと講じてもらいたいだけのことでした。
だから幕府が公武合体論を打ち出した時も、最初は鎖国の維持と攘夷の実行を条件としていたものの、結局は今後10年以内に状況を見ながら決断するという、かなりゆるい幕府の返答をもって、妹君である皇女和宮の将軍家降嫁を許しました。
また過激な尊皇攘夷派の集まる所となった京の治安を維持するために新設された、京都守護職として上京した会津藩主松平容保への信任は格別に高く、文久3年8月18日(西暦1863年9月30日)に起きた御所における長州藩士によるクーデター(八月十八日の政変)を鎮圧した際には、宸翰を御製ともに松平容保に送りました。
それはもちろん松平容保への感謝の意でしたが、逆に尊皇攘夷を名目にして狼藉を働く不逞の輩どものことは毛嫌いしていたのです。そもそも京都賀茂神社への行幸も、結果としては237年の沈黙を破った孝明天皇最大の偉業と言えますが、孝明天皇自身は嫌がっていたのに、過激派の側近に強要されて決行されたものでした。
孝明天皇の苦悩
孝明天皇が公武合体を支持したことは、幕府だけでなく孝明天皇に対しても批判が噴出することとなり、孝明天皇の示してきた権威自体も失墜しました。
結局のところ過激派は到幕のために尊皇攘夷の旗を掲げて孝明天皇の威を借り、孝明天皇が親幕であることに気が付くや孝明天皇をも不要としてしまったのです。
建国以来の国難に対して後世の恥にならぬよう果敢に行動した孝明天皇。そこにあったのは、天皇としての責務を全うすべき責任感に尽きると思います。
この記事のまとめ
- 孝明天皇は光格天皇から始まる皇統の三代目であり、光格天皇が意図した朝廷権威の回復を増幅させた。
- 孝明天皇は攘夷祈願のために京都賀茂神社に行幸したが、天皇が御所から外出するのは237年振りの出来事であった。
- 孝明天皇が攘夷思想であったのは天皇としての責任感からであったが、開国に向かった幕府との関係は決して険悪なものではなかった。
- 尊皇攘夷を唱えて京の街に出没した過激な志士たちは帝という存在を利用した不逞の輩であり、孝明天皇に毛嫌いされた。
- 孝明天皇が京都守護職松平容保に宛てた宸翰は、御所をクーデターから救ってくれたことに対する感謝の意を表したものである。
過激な浪士たちに利用された後見放され、頼りにしていた幕府の求心力も著しく低下した中、在位21年経過の慶応2年12月25日(西暦1867年1月30日)、日本国の行く末を案じながら、天然痘罹患のため崩御。満35歳での突然の旅立ちは、孝明天皇が邪魔になった過激派の手による暗殺だとも、一説にはあるようです。