日本に童謡と呼ばれる楽曲は数多あれど、「赤とんぼ」程広く世に知れわたっている歌は恐らく他にないでしょう。それを作曲したのが山田耕筰です。
作詞は日本を代表する詩人であった三木露風です。三木露風の書いた童謡詩に、山田耕筰が音を乗せました。
当代きっての詩人の書いた歌詞ですから、短い言葉の流れの中には大変奥深い意味があります。しかしそんなことなど深く考えずにこの歌が万人によって口ずさまれるのは、山田耕筰の哀愁漂う旋律がそこにあるからです。
いわばこの旋律であるからこその「赤とんぼ」の歌なのです。この旋律が本来の奥深い歌詞の意味に付け加えて、人々の心に郷愁の念を抱かせているのです。
また山田耕筰には特に北原白秋とペアを組んだ作品が多く見受けられます。北原白秋もやはりまた当時の高名な詩人です。
山田耕筰が名曲「赤とんぼ」をはじめとする童謡を多数作曲した経緯を追ってみましょう。それから北原白秋との訳ありげな関係も気になるところですので調べてみましょう。
目次
日本に西洋音楽を普及させた第一人者
山田耕筰は近代日本音楽の黎明期において国際的に活動し海外からも評価を受けた音楽家で、山田耕作としても知られています。元々の本名が山田耕作で、音楽家としての活動名も山田耕作でしたが、わりと早い時期にその活動名を山田耕筰に変え、晩年には戸籍まで変えて本名も山田耕筰に改名しています。
ですからどちらをどう使っても決してこちらが正しくてあちらが間違いということではないと思いますが、ここでは没した時の氏名である山田耕筰で通すことにします。むしろそれが一番統一されて分かりやすいのかも知れません。
生い立ちから童謡作曲家になるまで
明治19(1886)年6月9日生まれの山田耕筰は、旧板倉藩士であり医師でもあった父を早くに亡くし、良家の出であったにもかかわらず子供の頃には施設に預けられ工場で働く等随分と苦労した時期もあったようですが、その後姉を頼って施設を出ます。その時姉の夫の西洋人に音楽の手解きを受けることができたのがきっかけで音楽の才能に目覚めることになります。
東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科卒業後、三菱財閥の四代目総帥岩崎小弥太男爵の支援を受けて、明治43(1910)年から約4年間ドイツに音楽留学し、帰国後は岩崎男爵が主宰していた東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されます。ところが山田耕筰には大層な恋愛癖があってしきりと浮き名を流していたため、岩崎男爵の逆鱗に触れてしまい、支援を絶ち切られてオーケストラは解散してしまいます。
それでも音楽の才能は天分のもので、大正6(1917)年には渡米してニューヨークのカーネギー・ホールで演奏会を開いたり、大正9(1920)年には東京の帝国劇場でオペラを初演させたりと、音楽家として精力的に活動しています。一方で音楽家の近衛秀麿とともに現NHK交響楽団の前身である日本交響楽協会を設立し、再び自らオーケストラとの関わりを持ちます。
ところが経理処理の問題で内紛が起こり、近衛派と山田派が対立するものの大方は近衛派についてしまい、結局山田派は破綻してしまいます。このように成功と失敗、名声と醜聞、或いは天国と地獄を繰り返す山田耕筰の人生は、まさに波瀾万丈と言っていいでしょう。
オーケストラ楽団の件で失脚して多額の借金を抱えることとなってしまった山田耕筰は、音楽学校で教鞭を取ったりして生計を立てていましたが、ある時またしても再起可能なチャンスがやって来ます。世の中が「童謡」という、ある意味新しい分野の子供のための音楽を求めだしたのです。
山田耕筰の代表曲
一念発起した山田耕筰は、著名な詩人の書いた童謡詩に曲を付けて、次々に作品を完成させていきます。特に代表的なものとしては、以下のようなものがあります。
- かやの木山の《大正11(1922)年発表、北原白秋作詞》
- 曼珠沙華《大正11(1922)年発表、北原白秋作詞》
- あわて床屋《大正12(1923)年発表、三木露風作詞》
- 夕やけの歌《大正12(1923)年発表、木下杢太郎作詞》
- ペチカ《大正13(1924)年発表、北原白秋作詞》
- 待ちぼうけ《大正13(1924)年発表、北原白秋作詞》
- かえろかえろ《大正14(1925)年発表、北原白秋作詞》
- からたちの花《大正14(1925)年発表、北原白秋作詞》
- 赤とんぼ《昭和2(1927)年発表、三木露風作詞》
- この道《昭和2(1927)年発表、北原白秋作詞》
- すかんぽの咲くころ《昭和5(1930)年発表、北原白秋作詞》
今でも多くの日本人が何かの拍子にこれらの歌を口ずさんだりすることがあるのではないかと思います。日本人の心に残る多くの旋律を生み出した山田耕筰は、まさに近現代における日本音楽史上の第一人者と言えるでしょう。
誰もが知っている「赤とんぼ」
このように山田耕筰は数々の名曲を残していますが、今でも最も人々の身近な存在であり続けるのは「赤とんぼ」ではないでしょうか。あの哀愁漂う旋律は、日本人の心を揺さぶります。
「赤とんぼ」の歌詞には、実はとても奥の深い意味があります。作詞は三木露風であり、三木の幼少期の思い出を綴った詩に、それに山田耕筰が曲をつけたのですが、そのことによってこの詞の持つ哀愁感が一層引き立ち、作詞家一個人の思い出に留まらず、この歌を口ずさむ全ての人々の脳裏にそれぞれの懐かしい光景を思い浮かばせるのです。
ところで三木露風が描いた思い出の情景とは、一体何だったのでしょうか。歌詞を音として耳で拾ったものとしていったん平仮名表記し、それに漢字をあてがってみましょう。
- ♪♪ゆうやーけこやけぇのあかとーんーぼー、おわれーてみたのぉはぁいつのぉひぃか
- 夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か
- ♪♪やぁまーのはたけぇのくわのーみーをー、こかごーにつんだぁはぁまぼろぉしぃかー
- 山の畑の桑の実を、小籠に摘んだは幻か
- ♪♪じゅうごーでねえやぁはよめにーゆーきー、おさとーのたよりぃもぉたえはぁてぇたー
- 十五で姐やは嫁に行き、お里の便りも絶え果てた
- ♪♪ゆうやーけこやけぇのあかとーんーぼー、とまぁっていぃるぅよぉさおのぉさぁきー
- 夕焼け小焼けの赤とんぼ、止まっているよ竿の先
漢字にして目で追えば、情景がより鮮明になって浮かび上がってきます。そして1番から3番までが過去形なのに対して、4番のみが現在形であることに注目です。
ある時ふと竿の先に停まっていた赤とんぼを目にして、作詞者自身が幼い頃を回想しているのがこの「赤とんぼ」の歌詞なのです。つまり、幼い頃私をよくおんぶしてくれた優しかった子守りの姐やは十五で嫁に行ってしまって便りのないままだが、今でも元気に暮らしているのだろうかと、赤とんぼを見て懐かしんでいるのです。
これこそ三木露風が作詞した歌詞の本当の意味と言って良いのですが、この曲を聴いて知らぬ間に口ずさんでしまう時の私たちの心情には、私たちそれぞれの、個別のノスタルジーが展開されるはずです。それこそがこの哀愁溢れる曲によって山田耕筰が「赤とんぼ」の歌詞に与えたもうひとつの意味と捉えることができると思うのですが、いかがでしょうか。
北原白秋と山田耕筰
平成18(2006)年に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」を選定しましたが、その中に山田耕筰の作曲した歌が3曲選ばれています。そのひとつが「赤とんぼ」なのですが、あとのふたつはどちらも北原白秋作詞の「からたちの花」と「この道」です。
三木露風と北原白秋が活躍した時代は「白露時代」と称される程で、両者とも近代日本を代表する詩歌の巨匠です。山田耕筰はその巨匠のどちらともペアを組んで作品を生み出していますが、特に北原白秋との関係は特筆するものがありました。
日本にはなかった子供のための歌
山田耕筰が作詩家と組んで作り上げた曲には北原白秋との共作が圧倒的に多かったのです。それには理由がありました。
明治の時代になって日本は急速に西洋化されましたが、子供たちの歌う歌というのは、相変わらず伝承の童歌のようなものばかりでした。あるいは西洋そのものから輸入された子供向けの歌を日本語に置き換えただけの、まるで借り物のような歌ばかりでした。
そのような状態が長い間続いていましたが、明治が終わり大正という新しい時代となる頃、いわゆる大正デモクラシーというより自由な思潮の流れによって、ようやく状況が変化し始めます。更には鈴木三重吉という児童文学の専門家の登場が、この動きに拍車を掛けることになります。
赤い鳥運動の影響
鈴木三重吉は児童文化運動の父と称されていて、大正7(1918)年に創刊した児童向け文芸雑誌「赤い鳥」は、子供の純粋な感性を磨きあげていくための童話や童謡が創作され、その理念に賛同した当時の大勢の著名な作家が寄稿しました。詩人北原白秋もその中のひとりであり、中心的人物でもあったのです。
創刊当初は童謡といっても詩だけのもので、そこに旋律を加えることなど考える範疇にありませんでしたが、創刊後暫く経った時、楽譜の付いた曲が掲載されると大反響を呼びました。それは西條八十の童謡詩に後から成田為三が音を乗せた「かなりや」でした。
この現象に敏感に反応した創刊者の鈴木三重吉は、「赤い鳥」の童謡部門の主要担当者だった北原白秋に積極的に働きかけて童謡を作らせたのです。その作曲の相手として白羽の矢を立てられたのが、有能な音楽家であるにもかかわらずこの時くすぶっていた山田耕筰だったというわけです。
この記事のまとめ
- 山田耕筰は近代日本音楽創成期の第一人者であり、作曲家として或いは指揮者として日本での西洋音楽の普及に努めた。
- 作品は多方面にわたり、日本語の抑揚を活かした旋律で童謡もたくさん手掛けていている。
- 特に「赤とんぼ」は哀愁を帯びた独特のメロディーで、本来の歌詞の持つ意味とは別に口ずさむ者にとってのそれぞれの情景を脳裏に思い浮かばせる。
- 児童文芸誌「赤い鳥」の童謡詩を担当していた詩人の北原白秋は、山田耕筰とペアを組んで同誌で作品をたくさん掲載した。
心に残る旋律を数多く残したことで知られる作曲家の山田耕筰ですが、昭和40(1965)年12月29日、その型破りな人生に79年と半年余りで幕を下ろします。型破りではありましたが、破天荒であったことも間違いのない事実です。
この偉人を扱う映画やドラマはそれ程多くはないのですが、この度NHKの朝ドラ「エール」で山田耕筰をモデルとした小山田耕三という人物が登場します。その役を演じるのは、先日残念ながら帰らぬ人となってしまった志村けんさんです。
コメディアンだった志村さんは表向き破茶滅茶な人のようにも見えましたが、反対に内面は非常に繊細で気配りを欠かさない立派な方だったそうです。図らずも遺作になってしまいましたが、偉人の演じる偉人の役は、きっと「赤とんぼ」のメロディーのように強く人々の脳裏に焼き付いて消えないことでしょう。